森彬ショートメッセージ
十字架の主 Ⅰコリント1:18-25
使徒信条において、キリストの苦難と死とを結びつけているのは「十字架につけられ」と言う一句です。
主イエスの死は老衰によるものではなく、病死とか事故死と言うのでもありませんでした。彼は殺されたのです。しかも、囚人をできるだけ長く苦しめる残酷この上ない十字架刑により、朝9時から昼の3時まで、実に6時間にわたる死の苦悶をなめなければなりませんでした。
祭司長、律法学者たちはイエスを嘲弄し、十字架から降りてきて自分がメシヤであることを立証したらどうだ、それを見たら信じよう、と申しました(マルコ15:32参照)。パウロがⅠコリント1:22で「ユダヤ人はしるしを請い、」と言っているとおりです。
主はかつて、ご自分が殺されることを予告なさいました。その時、弟子のペトロは「主よとんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」(マタイ16:22)と言いました。イエスをキリストと告白したばかりのペトロにとって救い主が十字架にかかるなんて思いもよらないことでした。何しろ、申命記21:23によれば、「木に掛けられたものは神に呪われたもの」なのですから-。十字架のキリストは、まさに「ユダヤ人にはつまずかせるもの」でありました(1コリント1:23)一方異邦人にとってはどうだったでしょう。知恵を求めるギリシャ人はキリストの福音をあざ笑い(使徒言行録17:32)、ローマ人フェストはキリストの十字架と復活を語るパウロを狂人呼ばわりしました(同26:24)。真に、十字架のキリストは「異邦人には愚かなもの」でしかなかったのです(1コリント1:23))。
しかし、愚かと見えるキリストの十字架には、実は神の知恵が秘められ、わたしたちを目指しての、はっきりとした目的が託されていました。1ペトロ2:24に、「(主は)私たちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、私たちの罪をご自分の身に負われた」とあります。私たちはキリストの十字架に私たち自身の罪の極まりを見るとともに、神の愛の極まりを見ます。「十字架は神の愛の至高の表現である」(ニーグレン)と言われるゆえんです。
わたしたちのため、贖いの死を遂げられた十字架の主に、一層の讃美と感謝をささげたいものであります。
身体のよみがえり ーコリント 15 : 4 2一4 9
人間は死んだらどうなるのか? これはおそらく人類の歴史が始まって以来、真剣に問われ.てきた根源的な問いでありましよう。この問いに対しては、それこそ無数といっていいさまざまな推測がなされてきましたが、それらの見解は大きくは三つに分けられるだろうと思います。
① 死んだら、 すべておしまい。 死は人生における決定的な終止符である。
② 死は万.人のおよぶ運命であるが、 現世と決別しても、 なおその先がある。
③ いまだ死を経験 していない以上死んだあとどうなるか分かるものではない(つまり、不問にふすということ)。
これらの立場は、合理主儀と無神論のはびこる現代にかぎらず、古い時代からあった考え方です。 パウロの時代の教会の中にさえ、 「死者の復活などはない」と言う者がいました( 一コリント 15:12以下参照) 。彼らが考えるように、 死後のよみがえりなどないとしたら、生きているうちが花とばかり、「食べたり飲んだりしようではないか、どうせ明日は死ぬ身ではないか」(同32節)放言するようになりましよう。この復活否定論者の言葉にみられる刹那的な享楽主義には、しかし諦めと自暴自棄も同居しています。
これに対して、私たちの信仰は「死者が復活するという望みを抱いていること」 (使徒23:6)ですから、端的に「体のよみがえり・ ・を信ず」と告白するのであります。「身体」(原語はむしろ「肉」と訳すべき即物的な言葉)という言葉が附け加えられたのは、おそらく当時の霊肉二元論を否定し、その侵入を阻止:しようとの対抗処置ではなかったでしようか。
ところが、ここの「身体」の意味を誤解したため、ユスティノスやアウグステイヌス以来、生来の肉体への復原と受け取られて、西欧では久しく火葬をおそれ、土葬へここだわる習慣が続きました倖い、現在では正し馥活の理解の普及により事態は変わりつつあります。私たちは、身体生をもたない霊のようなものにではなく、また、朽ちざるをえない肉の体にでもなく、「霊の体」(Iコリント 15:によみがえるのでそれは生前とちがった体でありながら、しかも生前と同じ個人的特性を失うことなく、天国でもお互いに相手を確認することができ、祝された交わりを楽しむことができるのであります。
信条での「身体のよみがえり」はその法外な幸いを言い表したものといってよく、 私たちキリスト者の究極の 希望であり、 慰めです。 同時に それは、 現世を生きる日常せいかつの原動力であります。
人 の 言 葉 と し て で は な く Iテサロニケ2 : 1 3ー1 6
人間によって書かれながら神の言として読むべきものーーそれは聖書です。
それと同じように.人間によって語られながら、しかも 神の言として聞くべ きもの、それが説教であることを今朝の聖書の個所は示しています。
1566 年、 H. プリンガーが起草した 「スイス第二信条」 第一章の中に、 「神の言の説教そのものが神の言である」とされています。
しかし、一介の人間に過ぎないものがはたして神の言を語りうるでありましようか?これは実に困難な、途方もない課題です。かと言って、そのきびしさから逃亡してしまってよいでしようか。それはあってはならないことです。なぜなら、代々の説教者がそこに踏みとどまり、神の言を語るという重い課題をになってきたからです。神はそのつど説教者に聖霊を送り、彼らをとおしてご自身の言を語らしめてくださいました(マタイ10・20参照)
全権大使に国家を代表する権限が完全に委ねられているように、説教者には神から御言葉を語る全権が委ねられています。これは驚くべきことです-。パウロもまた神から全権を委ねられて語り、聞くテサロニケ教会の信徒たちも、それを「人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れ」ました(13節)。
私の心からの願いの第一は、説教者が神の言を語りきれるよう、準備をする説教者のため、聖霊の導きを共々析っていただきたいのです。第二に、皆さんが説教を重んじ、それを「神の言」としてしっかり受け入れていただきたいのです。
テサロニケ教会の信徒たちはマケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となっていました。それは何よりも彼らが「聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れていたからです(1 :6-7)。彼らはまさに説教の良い聴き手だったといえましよう。
私たちは礼拝で神にお会いします(出エジプト記29:42)身と心を整え、正しい姿勢で礼拝に臨むと共に、語られる説教を神からの言葉として受け入れる姿勢がもとめられます。2;13末尾に「(神の言葉は)信じているあなたがたの中に現に働いている」とあるように、受けいれるという信仰の従順があればこそ、御言はわたしたちの中で生きて働き、力を発揮します。聖日にまカれた御言の種が皆さんの週日の生話において行動の花を開カせるとき、そこに神の国は進展し、み栄えがあらわされてゆくのであります。
主において常に喜べ フィリピ4 : 2ー9
裏返して言えば、喜びがあればこそ人生は真に生き生きしたものになるということです。では、本当の喜びは何によってもたらされるのでしようか。
ガラテヤ5 : 22ー23によれば、聖霊は私たちの中に9つの愛すべき美徳を生み出します。喜びはその一つであって、フィリビの信徒への手紙の鍵になる言葉といえましよう(全体で16回も「喜び」とか「喜ぶ」という語が出てきます)。
したがって、パウロがいう「喜び」とは御霊の実であり、神と関わります。だからこそ、パウロは4節で単に「喜べ」とは言わす、「主において>常に喜べ」と勧めるのであります。この「主において」(ロ語訳では「主にあって」)はバウロ的な慣用句で、キリストとの霊的な交わりを意味し、「主を信じる信仰において」といった含みをも持っています。
人間は普通、何らかの理由や条件によって喜ぶのであります。しかし喜べる時だけ喜ぶというのは、喜びの原因が自分のく外> (たとえば玩具やお金、恋人等々)にあるということではありませんか。これでは喜んでいるのではなく、喜ばされているのです。とらわれない真の自主的な喜びとは、喜べそうな時だけでなく、喜べそうにない時にも、常に喜ぶことではないでしようか。
もちろん、私たちの人生には悲しみや涙を経験しなければならないことも少なくないでしよう。しかし悲しんでいるように見えても、本当は神による喜びにみたされているのです。聖霊がそのような信仰の歩みを可能にしてくださいます。
5節後半に「主はすぐ近くにおられます」(ロ語訳「主は近い」)とあるように終末の時には誰もか審き主キリストの御前に立ちます。けれとも、審判者は同時に、私たちの罪を十字架上で贖てくださった恵みの主でもあられます。私たちは罪の重荷を除かれてこそ、真の喜びを得ることができるのです。
「主において常に喜べ」 は、 続く三つの勧め 「寛容であれ、 思い煩うな、 感謝をも て祈れ」 5ー6節) につながり、 それらを真にみたすものです。
獄中のパウロとシラスは、 患難の中にも賛美の歌をうたっ て神に祈っ ていました( 使徒16 : 25)。
それが他の囚人たちに感化を及ばし、 「主にある喜び」 が証しともなりました。私たちも周りに喜びをもたらす喜びをめざしたいものです。
我らの主イエス・キリスト フィリピ書2 : 6ー1 1
使徒信条で、 神、 キリスト、聖霊についての告白文を比較してみますと、 第二項のキリスト告自の部分がきわだって長いのに気が付きます。これは聖書の信仰が何よりもキリストを中心としているからで、 使徒信条の主題は第二項 に存するといわなければなりません。
初代教会での一番はじめの信仰告白は 「イエスは主である」 という簡潔きわまりないものでした。 この短いキリスト告白が核となり、次第に膨らんでいって、その後、神への信仰告白(第三項),などが附け加わり、いまの使徒信条ができました・
第二項は、原文では「イエス・キリスト(を)」で始まります。「イエス」はへブル名ヨシュアのギリシャ読みで、ごく平凡な、ありきたりの人名、「キリスト」は職能名「メシア」のギリシャ語訳で、救い主をさす称号です。したがって、イ工ス・キリストというよびなそのものに、「このお方はまことの人にして、まことの神」との告白がひめられているといえましよう。主は私たちと同じ.人間であればこそ、身代わりとなって実質的な贖いを果たしてくださいました。同時に、まことの神なればこそ、私たちに実質的な救いをもたらすことがおできになったのであります。
ここで、フィリピ書2 : 6ー11を見てみましよう。当時の教会で歌われていた賛美歌の引用と言われていますが、前半の6一8節では天におられたキリストが 地上にくだられたこと、後半の9ー11節では神がキリストを高く挙げられたことが述べられています。
神の身分であり、神と等しい者( 6節)が、あえて僕の身分になり、人間と同じ者( 7節)になられました。ここには天から地への明らかな下降線が認められないでしようか。
しかし、その下降線は9節にいたって上昇線に転じます。神がキリストを「高 上げ( 9節)、天的な位をお与えになったからです。
私たちの「キリスト賛歌」は10, 11節の次のみ言葉で結ばれます。
「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの聖名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」
ひざまずく一公に宣べる一神をたたえる、とあるように、イエスに対する崇敬がキリスト告白を生み、その告白は神賛美にいたります。初代教会の信徒たちが参加で確認したことを、私たちもまた確認しようではありませんか。
自分の事ばかりでなく、他人の事も フィリピ2:1-5
「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」-これはフィリビ2 : 4の御言ですが、仮に前後と関係なくこれだけを取り出してみたら、私たちの日常生活でよく用いられる言葉ではないでしようか(たとえば、家庭で、学校で、あるいは仲間うちでも・・・)。
この世の中では、各個人にとて自分自身が最大の関心事です。2 : 21で言わ れているように、「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」。もし人が自分自身にのみ関心を払い、自己の利益のみを追求し、利己的な野心をもて行動するだけだとしたら、他の人々と衝突することは避けられません。他人はつねに征服すべき敵か打ち負かすべき競争相手となり、そこには不一致以外の何ものもないでありましよう。
では、自分のことにはいさい注意を払わず、無頓着でいろ、というのでしょうか。もう一度、2 : 4の御言を読み返すと、「自分のことだけでなく他人のことにも・・・」とあります。自分のことは考えるな、というのではありません。もし自分自身のことを放置してしまたら、結果的には周囲の人にさまざまな面倒をかけ、自ら怠った世話を他人にしてもらわなければならなくなるでしよう。
ひるがえって、私たちが他の人々のことを考えるようになるには、どうすれば よいのでしようか。それはキリストにならうこと これ以外に道はありません。
バウロは続く5節で、「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イ工スにもみられるものです」と述べています。「キリスト・イエスにもみられるもの」とは、6ー8節に記されているように、神と等しいお方が私たち人間に僕として仕えるため、あえて地上の最も低い所に身を置かれたことを言います。他人のことにも注意を払うという点で、これ以上のケースがほかにあるでしようか。
人間は文字どおり「人の間」にある存在です。共に生きる他の人々を通しても神の恵みを知ることができる、ということを聖書は私たちに教えています。さらには、私たちは他人に目を注ぐことによって初めて、自分に本当に目を注ぐのであります。距ての柵とみえる他人が、同時に交流の扉ともなります。K.バルトは「隣人を素通りして神に至るいかなる道も存しない」とさえ言っています。
その人が自分に好意的であろうがなかろうが、「相手を自分より優れた者と考え」( 3節)、自分にとって神の恵みの器であると受けとめましよう。逆もまた真です。 I コリント10 : 33 にあるように、 私たちはまわりの人々に救いの喜びをもたらす く神の恵みの器>として召されているのですから。
時間売ります 工フェソ書5 : 1 5ー2 0
もしも時間が売買できるとしたら、時間の足りない人は進んで買い求め、逆に時間を持て余している人は「時間売ります」との看板を出すことでしよう。
しかし、時間はいうまでもなく売買の対象とはなりまゼん。それた゛けにかけがえのない貴重なものです。西洋の諺にも「Time is money 」とあります。でも、時間はお金よりもっと大切です。保存がきかず、使いたいときに使うということは出来ませんし、Aの生きる時間をBか゛代わー,て生きるわけにもいきません。その時その時をとう生きるか、と゛のような行動をとるかか問われるのです。
歳をとればとるほど、時間は心理的に短くなります(P.ジャネの法則)。また現実間題としても地上での時間は残り少なくなっていきます。Time is money でなく、 「タイム・イズ・モーネー」が実感となってきます。
けれとも、老人の余生はわすかであり、若者の享受しうる地上の生は長い、と単純に言いきれるてしようか。「千年といえども御目には昨日か゛今日へと移る夜の一時に過きません。- - - -瞬く間に時は過ぎ、わたしたちはび去ります」(詩編90 : 4, 10 )。とすれば、老人に残された時間も、若者がなお過ごすであろう時間も、永遠の前では取るに足らぬ相対的な違いでしかない、といわねばなりません。
神は私たちに永遠を思う心をお与えになたのですから、見えるものではなく、見えないものに目を注ごうてはありませんか。「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」( Ⅱコリント4 : 18 )。
もっとも、私たちはこの世にある限り、時間を超越して生きることはできません。日々の生活の中で、ときには時間にとらわれてしまいがちです。だからこそ、エフェソ5 : 16が「時をよく用いなさい!と勧めているように、今の時を活かして用いる知恵か必要です。この御言の「時」とは神か゛御旨を行わせるためにお定めになた時(カイロス)であり、「よく用いなさい」は直訳すれば「買い取りなさい」となります。私たちはどのように時を買い取れるでしようか。
顧みて、私たちはキリストの尊い血の代価が支払われたことにより、買い取られてキリストのものとされた者です(lコリント6 : 20参照)。 ここに時を買い取る秘密があるのではないでしようか。
日々、時 計で測ることのできる時間 (クロノス) の中に、神がお与えになる特別な機会としての時間 (カイロス) は隠されています。終末を望みつつ、受けた恵みの応答として「今の時を買い取る」と共に、それを神と人とに仕えるために用いようではありませんか。
聖霊による保証 エフェソ書4:25-32
「這えば立て、立てば歩めの親心」と言いますが、これに対して「親の心、子知らず」とも申します。私自身、中学2年の時に家出と言うとんだ親不孝をし、その後も何回となく親を悲しませてきました。
今朝の聖書の箇所の中に「聖霊を悲しませてはいけません」(30節)とあります。神の愛に導かれる者はみな神の子です。それゆえ、パウロは聖霊を「神の子とする霊」(口一マ, 8: 14 )と言い表わしました。義認から聖化へという信仰者 の全過程はすべて聖霊の導きによることであります。
「聖霊を悲しませてはいけません」と勧められているのは、裏返せば、それだけ私たちが聖霊の恩恵を忘れ、聖霊を悲しませやすい者た゛からでありましょラ。
親が子供の誤ちや非行を悲しむように、聖霊は嘆き苦しみ給うのであります。
助け主であり導き手である聖霊は、私たちが古い生き方を捨て( 17ー24節の小見出し)、新しい生き方( 25節以下の小見出し)をなすようにと期待しています。その期待かあればこそ、神の子らしからぬ私たちの振る舞いや言動を見て、聖霊は悲しみ給うわけであります。
29節には4つの倫理的勧告がしるされています。①偽りを捨て、隣人に対して真実を語れ(25節)。②怒ることがあても罪を犯すな。宵越しの怒りを持つな(26節)。③盗んではならない ここでは法的なレベルでなく、公私混同の罪や時間泥棒などを戒めたもの(28節)。④悪い言葉を一切口にしてはならない(29節)
かえりみて、私たちはいかにこれらの戒めにそむいていることでしようか。信仰者として古い生活を捨てたはずの私たちが、今なおそれをひきずっています。それか゛聖霊を悲しませ、ひいては父なる神の御心を傷めています。そのことを思うと、私たちは自分自身に失望し、「はたして信仰があるんだろうか?」と疑わしくなることがしばしばであります。
しかし、徒らに気落ちしてはなりません。からし種一粒ほどの信仰」(マタイ17 : 20)でよいのです。「神は不完全な信仰をも、キリストのゆえに完全な義とみなし給う」(ルタ一 )。何と有難いことではありませんか!
30節bで言われているように、私たちは聖霊によって贖いの日(終末の時)に対して保証されています。神の所有と保護のしるしである聖霊の証印を押された者として、まわりの人々に真実を(真理なるキリストを)語りたいと思います。
それこそ聖霊を喜ばせる何よりの応答であるに違いありません。
聖なる公同の教会 エフェソの信徒への手紙 4:1-6
使徒信条には、「われは聖霊を信ず」に続いて、「聖なる公同の教会・・を信ず」とあります。
これはむろん、教会を父・子・聖霊と同じように信仰の対象にするというのでないことは言うまでもありません。教会が「聖霊の働きのなかで生まれ、支えられているということを確信する」(加藤常昭)ということなのです。
まず「聖なる」とありますが、この表現を「清く、完全無欠な」という風にとるなら、それは教会の実態にそぐわないといわざるをえません。過去2000年にわたって、教会の歴史は幾多の汚点を残してきたからです。たとえば、教派間の激しい争いが、時には恐ろしい流血の騒ぎをさえ引き起こしました。香川豊彦はかつてこう語りました、「私英語が非常に下手である。私が"denomination"(教派。ここではむしろ教派主義の意)というと、ある人々は私が"damnation"(呪い)と言っているのだと思う。しかし私は驚かない。私にとって、それらは全く同じことである」と。教派主義の罪は現代の教会のもっとも大きな罪といえましよう。
しかし、「聖なる」という言葉の本来の意味は、この世から分か-たれ、区別されている、ということです。聖別されたものとしての特殊性、固有性を失ったら、教会はもはや「聖なる教会」とはいえません。
つぎに「公同の」という言葉についてバルトは、「教会は公同的であるか、それとも教会でないかどちらかである」と述べています。使徒信条をみると、
「聖なる公同の教会」は単数形になっています。エフェソの信徒への手紙4 : 4にも、「体は一つ」とあります。それゆえ、「公同の」とは、教会というものが本来ひとつであり、時と場所をこえて普遍的・全世界的なひろがりをもつことを意味しているといえましよう。
このように、「聖なる公同の」という二つの形容には、教会にそなわる特殊と普遍、固有性と統一性とが同時にあらわされているわけです。」
テモテへの手紙一3 : 15をみると、神の家なる教会が「真理の柱」とか「土台」 (「壁」とも訳せます)とひゆてきにあらわされています。キリストを土台とする神の家には、福音の真理を支える柱と、真理を異端の強風から守る堅固な壁がしっらえてあり、それらをもって、教会は真理を告げ知らせると共に、この世の力に対抗して神の子供たちを守るのです。教会の存在理由がそこにあります。
聖なる公司の教会に連なる者として、福音の真理をこの世に証しし続けたいものであります。
愛のわざに 励みつつ 工フェソ書2 : 1ー1 0
信仰義認はいうまでもなくプロテスタントの福音理解の大どうりを成してきました。その聖書的根拠はローマ書やガラテヤ書にかぎらず、エフェソ書2 : 8などにも明白に見られるところです。
ひとは信仰によって救われる一一バウロはこの一大真理を創世記1 5 : 6やハパクク2 : 4のみ言葉をとおして再発見したのでしした。これは、宗教改革のモットーである「信仰のみ」に集約されています。
では、信仰による救いを説いたパウロは行為を軽んじ、ないがしろにしたのでしようか?とんでもありません。彼はエフェソ書2 : 1 0で、私たちが造られたのは「善い業のため」だと言っています。ただ留意しておきたいのは、キリスト者のよきわざは救われるための掛け引きの道具としてではなく、救われたゆえの感謝の応答としてなされるものだということ。
それゆえ、きようの個所をうしろから逆に読んではなりません。まず、私たちの罪( 1ー3節)と神の憐れみによるキリストの恵み( 4ー7節)が語られてから、8ー9節で「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。・・・行いによるのではありません」と念のいった指摘がなされます。そして最後に、行為がうながされるのです( 1 0節)。
信仰から行為へ、一ーこれが聖書の真理に適った正しいとらえ方であります。
「ただキリストを信じる信仰によって・・・義とされます」と述べる教団信仰告白が、そのあと、「愛のわざに」との句を含ませているのは、けっして恣意的な挿入なのではなく、福音が倫理を生み出すという必然的な展開を示したものとみるべきでしよう。ガラテヤ書5 : 6に「愛によって働く信仰」(口語訳)とあります。言葉を補うとすれば、「キリストの贖罪愛に触発されての他者への愛によって働く信仰」ということです。そうした信仰に基づいてこそ、私たちのわざは喜ばしい愛のあらわれとして、真に自発的になされるでありましよう。
なお、「愛のわざに励みつつ」という句は、文脈上すぐ後に続く「主の再び来たり給ふを待ち望む」(文語体式文) という文章の従属節です 。このことは私たち信仰者の倫理的な在り方と終末的な在り方とが深く結びついていることを物語っています。再臨の待望ーーそれはただ首を長くして無為に日をすごすことではなく、むしろ、 落ち着いた信仰者の品位をもって現世での倫理生活に励むことです。
未来を見すえつつ 、 愛をもって今を生きる者でありたいと思います。
キリストの体なる教会 工フェソ書1 . 1 5一2 3
新約聖書には教会を「キリストの体」と表現している箇所が少なくとも8カ所ほどあります。うち3回はエフェソの信徒への手紙に見いだされ、教団信仰告白の第4条の冒頭、「教会は主キリストの体であって」はそれら(とりわけェフェソ 1 : 23前半の句)に基づいた告白ということができます。
「言は肉となって」(ヨハネ1 : 1 4 )とか「人間の姿で現れ」(フィリヒ。2:7 )とあるように、キリストはこの世に来られたとき、人間性の端的な表現である肉、すなわち体を取り給うたーーーこれがいわゆる「受肉」ということ。
その後、十字架上.の苦難と死、復活を経過して主は昇天なさいましたが、それは消滅したというのではなく、キリストの体は「教会」として地上で具体化したのであります。神はキリストを頭として教会にお与えになりました(22節後半)。
ローマ・カトリック教会は現在、法王を「かしらを代行する者、キリストの代理人」と呼んでいるようですが、神ご自身が頭をお与えくださった以上、どのような意味でも、「かしらの代行」などは不必要といわなけまなりません。
手や足を含んだ体は、頭が思う所、考える所、なそうとする所を実現する道具といえます。それゆえ、もしキリストという頭を持たないなら、教会は首のないトルソのようなもので、何の動きもなすことができません。それだけでなく、頭と分断された体は死んでしまいます。とすれは、体は頭から指令を受けるだけでなく、生命をも守られていると言ってよいでありましよう。
教会は人間の集団という一面において、たとえ不完全で弱く、欠点にみち、時には醜くあろうとも、それにもかかわらず、主キリストの方ではなお私たちをこ自分の「体」として召してくださり、教会をとおしてこの世界に働きかけ、その恵みのみわざを展開しようとしておられるのであります。ここに教会の存在理由があり、特別な栄光と誉れがあります。
23節後半で「満ちている」と訳されたもとの語は「プレローマ」(充満)という名詞で、本来は船やロバで運搬される積荷をさしました。教会はキリストが高価な宝としてご自分の身に担われた「積荷」といったらよいでしようか。私たちもまた、福音の進展のためにおのおのその重荷を引き受けて担ってゆくとき、教会はいよいよ「キリストの体」にふさわしく整えられて行くでありましよう。
キリストの体なる教会に連なっていればこそ、私たちは神によって生かされ、頭なるキリストにむかって成長していきます(ェフ=ソ415)。それこそ、私たち信仰者の正しい本来の在り方でありましよう。
この変わらざる恵みの内に エフェソ 1:7, 6:24
ヘレニズム(古代のギリシャ的文t化)での手紙の書き出しは、当時の習わしとして「・ ・から・・・へ挨拶,いたします」というのが普通でした。
ところが、新約聖書に収められている手紙(全部で2 1通)はそのほとんどが、「恵みと平和があなたがたにあるように」との祝祷で始まっています。手紙の結びでも、同様の祝祷が用いられることが少なくありません(一例.ェフェソ6:24 の「恵みが(中略)すべての人と共にあるように」)。
「恵み」という語は新約で都合155回も使われ、よく知られたキリスト教用語のひとつです。ェフェソの信徒への手紙では12回出てきます。1章7節では、私たちがキリストの贖いによって罪ゆるされたことが「神の豊かな恵みによるもの」だと記されていますが、教団の信仰告白の第三条では、義認(赦し)から聖化(潔め)への展開をつなぐ一句として、「この変わらざる恵みのうちに」(文語体) という言葉が入っています。これは信仰告白の「最も画期的な点」(北森嘉蔵)であります。
フィリピ3: 13, 14には「わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただーっ、(中略)目標を目指してひたすら走ることです」とあります。この未完結の聖化が私たちの救いの、確かさを保証するのではなく、救いの確かさはあくまでも罪の赦しにあります。
もしカトリック教会の主張するように、聖化の過程における破綻によって、いったん与えられた神の恵みが「再び失われる」(トリエント会議6会期決議)というのなら、救いの確かさは永久に与えられないことになりましよう。人間の側の状態いかんによって変わるような神の恵みは、ついに人間を救わないでありましよう。カトリックと私たち福音主会との点は、結局この一点に帰着します。信仰告白における「この変わらざる恵みのうちに」という一句は、,こにおいてどうしても必要となってくるのであります。「この」というのは、すぐ前の「わたしたちの罪をゆるして、義とされます」とある神の恵みを指します。赦しの恵みはいったん与えられたからには、人間の状態いかんによって変わるものではありません。この「変わらざる恵みのうちに」、聖化は起こるのであります。
点にたとえられるく義認>は、線にたとえられるく聖化>へとつながって行きます。「信仰のみ」(ソラ フィデ)はまた、「恵みのみ」(ソラグラティア)と言し験えて差し支えありません。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」(ェフェソ2:8)とあるとおりであります。
霊の導き ガラテヤ書5 : 1 6ー26
先週の説教で取り上げたように、主イエスは私達に、「仕える者となれ」とおっしゃいました(ルカ22:26参照)。パウロもまた、「愛によって瓦いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13)と動めています。
他人を愛し、これに仕えるということは、むろん自動的になされるものではなく、それなりの決心と積極的な姿勢がなければ出来ないことです-。
けれども、徒らに「頑張らなくちゃ」とカむ必要はなく、悲壮な思いで構えることもいりません。聖霊の導きに従いさえすれば、そこに仕える生活がおのずと生まれてくる一一だからこそ、パウロは16節で「霊の導きに従って歩みなさい」とうながしています。ラジコン付きの模型自動車が電波に導かれて走るように、神はという無線で私たちに正しいコースを指示なさいます。
人はだれでも、福音を聞いて信じたその時に聖霊を受けています(3:2参照).そして洗礼を受けた者は、この指揮下にいれられて新しくされたのであります。更にその後の信仰生活も、聖霊が支え、導き続けてくださるのです-。
とはいえ、その長い信仰生活の間には、聖霊の導きを無視し、その指揮下を離れようとする誘惑がしばしば襲い掛かかります。「肉と震とが対立し合っている」(17節)肉に従って歩むなら、私たちは早晩、罪の奴隷となるでしよう。逆に、霊に従って歩むなら、私たちは真の自由人となり、神と人とに仕える生活も恵みへの感謝の応答として自発的になして行くことができるのであります。
「霊」をさすヘブル語の「ルーアハ」もギリシャ語の「プニューマ」も、共通して「風、呼吸、息」といった意味をも含んでいます。新鮮な風はそれを深々と呼吸する者に生気を取り戻させます。そのように、命にあふれた自由とは、聖霊という風が吹いてきて、それを胸いっぱいに呼吸することなのです。この自由を得させるために、主キリストは十字架にかかって私たちを罪の縄目から解放し、自由にしてくださいました(5:1)。この福音の真理により、聖霊の導きに従ってあゆみ、また進むことこそ、私たちの本当の生きる道であります。
御霊によって歩む者の足取りは、最後の勝利を信じて疑わない者の確信にみちた足取りです。私たちは昼寝をするために召されたのではなく、目覚めて戦うために召された人間です。
聖霊の導きに従うなら、私たちは肉との戦いを耐え抜く力があたえられ、勝利の道を前進することができます。
聖霊への服従のある所、祝福の扉は大きく開かれるのであります。
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キリスト者の自由 ガラテヤ書5:1-15
パウロの書いたフィリピの信徒への手紙が、よく言われるように「喜びの手紙」だとしたら、同し著者の書いたものでも、このガラテヤの信徒への手紙は、<怒りの手紙>といっておかしくないでありましよう。
実際、1 : 8ー9では福音に反する教えを吹き込もうとする人々に対して、二度も「呪われるがよい」と言い、3 : 1では宛先の教会員にも「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」と遠慮のない言葉をぶつけ、5 : 12では「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまうがよい」と言い放っています (ほかに、4 : 21や5 : 7, 10なども参照)。
パウロは一体なぜこれほどまでに激越な言葉を連ねているのでしようか。それはひと言でいって、福音の自由がそこなわれていることへの怒りです。バウロ転任のあと、ガラテヤ教会は新しい指導者が偽りの教えを広めたため、信徒たちはまことの福音から大きくそれて行ってしまいました。「あなたたちがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」( 1 : 6) パウロのこの驚きは怒りともなりました。と同時に、信徒たちが失いかけている信仰の自由の尊さを強調せずにはいられませんでした。
「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです( 5 : 1 )。キリスト者の自由はあくまでもくもたらされた>自由であって、私たち人間の手でくかち取った>自由ではありません。聖書は人間による自己解放、自力脱出はありえないことを語ります。カルヴァンやルターが言うように、「救いは外から」(すなわち、キリストにおける神からの一方的な恵みによって)もたらされるほかありません。キリストは罪の奴隷となっていた私たちを憐れみ、ご自分の命を代償として身受けしてくださいました。 Iコリント7 :23に「あなたがたは、身代金を払って買い取られた」とあるとおりです。私たちの自由はこのキリストの尊い儀牲によってもたらされた、この上ない宝です。
しかし、宝は秘蔵されてはならず、活用されなければなりません。この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」( 5 : 13 )。
自己愛は欲望をつのらせ、罪におちいり、やがては減亡に至ります。自由になるとは、実はこの自己愛から自由になるということです。と同時に、「愛によって仕える」という隣人愛へと自由になることでもあります。ルターが「キリスト者とはすべての者の上に立つ自由な君主であり、またすべての者に奉仕する僕である」と述べているゆえんも、そこにあるでありましよう。
文字は殺し、霊は生かす 第二コリント3・4ー6
パウロが今朝の箇所の直前、3節で「石の板」という言葉を用いたとき、明らかにモーセの十戒のことが念頭にありました。出エジプト記31 : 18に「主はシナイ山で・・・石の板をモーセにお授けになったとあります。
一方、「人の心の板」という言葉はキリストによって成就した新しい契約を示しています。すでにエレミヤ書31 : 31以下で、神が新しい契約を人々の心に記し給うことが預言されていました。
もしも、古い契約がちゃんと守られていたら、新しい契約が用意される必要はなかったでありましよう。ところが、モーセからの言葉を聞いて「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」(出エジプト記24 : 7)と誓ったはずの民は、一向に律法を守らず、神との契約を繰り返し破ってきました。
律法と言うものは、宗教改革者が指摘しているように、人間がいかに神の御心にそむく罪深い者であるかを示すためにあります。しかも律法の要求は神に神に対する負債を人に負わせ、更にはその人間を呪いのもとに置きます。それゆえ、パウロはガラテヤ書3 : 11で、「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは明らかです」と申しました。
かつてのパウロは、律法をみたすことによって神の救いを獲得しようと懸命の努力を続けていましたしかし、その結果はどうだったでしようか?律法を守り切れないことへの焦りと落胆、その反面には律法を守ろうとしない者への優越感と蔑みの情をいだくのみで、平安は少しも得られませんでした。
6節の「文字は人を殺し、霊は生かします」という句は律法と福音を対比させたものです。では律法と福音はどう違うのか?たとえで考えてみましよう。
大雨で2階まで水に浸り、屋根の上で助けを求めている人にとっては、現場を空から撮したり、被害状況を本部に無線連絡するだけの視察用セスナ機は、何の助けにもなりません。待ち望まれるのは救援用、へリコプターです。これなら
頭上での停止が可能で、ロープをおろし被災者を無事に収容できます。かくして死の危険から脱して救われるに至るわけです。
律法は私達の罪の現状を指摘し、滅びと死を警告はしますが、救いの手を差し伸べることはできません。これに対し、福音はキリストの贖いの恵みを信じる信仰によって、私たちを神と和解させ、救いに至らせます。福音の展開はつねに聖霊と関わってきました。その意味で、福音に生きるとは霊に生かされることであり、キリストの復活の力により、新しい命に生かされることといえましよう。
あなたがたはキリストの手紙 第二コリント 3:1-3
新約聖書には21通もの手紙が収められていますが、イエスご自身の書かれた手紙は一通もありません。そもそも、主が物を書かれたということ自体、ヨハネ福音書8章6節と8節にしか記されていません。しかも指で地面に字を書かれただけですから、書いたものが残っているわけではなく、また何をお書きになったかも不明のままです(ある聖書学者は、姦淫の女を責める人々の過去の罪を書きつけておられたのでは?と想像していますが)。
このように、地上におられた時、一回だけ、しかも人々の罪の記録を書かれたと考えられる主イエスは、十字架上に死んでよみがえり、神の右にあげられてから、「手紙」を書き始められた、とバウロは申します。もっとも、その「手紙」は 「キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙」と3節にあるように、ここではパウロの伝道によってキリストへと導かれ、回心したコリントのキリスト者たちをさしています。彼らがキリスト者になったということは、同時に、キリストの愛の心を読みとり、彼らにその恵みを伝達しようとする「手紙」とされたということです。そう考えますと、この「あなたがたはキリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙」という言葉は、キリスト者という存在と、その性格が何であるかを示す意義深い表現といわねばなりません。
かつては人々の罪を書き記されたであろう主キリストが、今では私たちの罪の記録を書こうとはされません。なぜでしょう? 「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、・・わたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださ」ったからです (コロサイ 2:13,14)。犯した罪の数々を書き連ねられて非難されても文句の言えない私たちを用いて、主はご自分の大いなる愛を世の人々に伝達しようとしておられる。何とありがたく、光栄なことではありませんか!
たとい私たちがどんなに小さく見ばえのしない存在であろうとも、また、生きる価値も使命もないと思われるような境遇にあろうとも、「あなたがたはキリストの手紙である」と私たちの人生そのものが神によって肯定されています。また、 主イエスご自身から「どうしても必要なので、あなたを用いたい」と願われているところの尊い存在とされているのです。
この世の人々へのキリストのメッセージを託され、主の語りかけを担っている 「キリストの手紙」として、恵みの喜ばしい音信を届けたいものであります。
死と葬り 第一コリント 15:3-5
イエス・キリストは「十字架につけられ」、昼の三時ごろ、 ついに絶息されました。十字架刑に処せられながら死なずにいることは全く不可能です。 刑場は死の舞台であり、そこが 「ゴルゴタ」すなわち「されこうべの場所」 (マルコ 15:22)
と呼ばれたのも、即物的に<死>と結びつけてのことと思われます。
では、使徒信条がそのあと、あえて 「死にて」 と続けているのはなぜでしょうか。 それは「十字架につけられ」 への補充のためというよりは、 「十字架上の苦しみの完了を意味するもの」 (渡辺信夫)というべきであります。
つづく 「葬られ」 は、 福音書では「墓の中に納めた」 となっていますが (マルコ 15:46 と並行箇所)、埋葬は死者が一般に受ける処置であると共に、結果的に死の事実を確証するものです。 それゆえ、パウロが1コリント 15:34で引用した
原初の信仰告白の中にも「(キリストが) 死んだこと、 葬られたこと」 とあり、やがてそれが使徒信条の中に定着したといえましょう。それは主が 「まことに死んでしまった、ということを証しするため」 でありました 『ハイデルベルク信仰問
答 問41 と答)。 さらに言えば、使徒信条におけるこの文言が用意されたのは当時のキリスト仮現論 (ドケティズム)との対決を意図してであったでしょうが、ここではその可能性を指摘するだけにとどめたいと思います。
主イエスは十字架上で、 私たちに代わって、 あますところなく呪いを受けられました。 「死にて葬られ」 とは神がすべての裁きを終了し給うたことを示すものといってよく、その意味では、葬りそのものが新しい始まりを含んでいます。
三日ののち、数人の女たちが墓へ行ってみると、あるべきイエスの遺体はなく、入口をふさいでいた大きな石も転がされ、墓は空になっていました。 ですから、主が復活なさったあと、 信徒たちはもはや、律法学者のように 「預言者たちの墓
を建て」 たりはしませんでした (ルカ福音書 11:47 参照)。 その必要もありませんでした。 墓をおとずれた女たちに天使は告げています、 「そのかたは、ここにはおられない。 よみがえられたのだ」と (同 24:6)。
私たちとて、 将来の 「死と葬り」は避けられません。 それはけっして軽視することを許されない、 現世の最後に控えている厳粛な事実ですが、しかし、主を信じる者にとって、墓はいわゆる<終の住処 > ではなく、 ただ通り抜ける通路にす
ぎません。
「死にて葬られ」は、イエス・キリストの場合と同様、私たちにとっても最後の言葉ではなく、最後から二番目の言葉であります。
恵みによる召命共同体 ローマ書1:1-7
教会は趣味を同じくする同好会やある理念を共有する結社や利益追求を旨とする企業体とちがって、教団信仰告白にあるように、「恵みによって召された者の集まり」です。
実は教会という言葉の原語 「エクレシア」 そのものに 「召し出された者の群れ」という意味合いが含まれています。
日本では、伝道者の使命を受けることを「召命を受ける」 と言ったりしますが、これはあくまでも狭い意味での特別な召命をさしています。 これに対し、一般的な召命があります。 1節での「召されて使徒となった・・」は前者に、7節の「召されて聖徒 (信徒の意)となった・・」は後者に当たるといえましょう。
もっとも、使徒パウロと聖徒たる者との間に本質的な違いがあるわけではなく、キリストにつながっているという点では全く同じであります。
私たち日本のクリスチャンは聖書でいう「異邦人」であり、神に召された旧約の選びの民イスラエル人ではありませんが、6節にあるように、 「異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいる」のです。 これ
こそ新約時代の恵みというべきでしょう。
私たちが召されたのは何ゆえでしょうか。 召されるに値する条件や価値を備え
ていたからでしょうか。 いな、 I コリント1:27 以下にあるように、神はあえて世の無に等しい者や見下げられている者をお選びになりました。 それは 「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするため」なのであります (同29節)。
私たちが召されたのは、ひとえに神の憐れみと恵みによるということです。その意味で、教会は単なる社会的な人間集団ではなく、 <恵みによる召命共同体>といわなければなりません。 現象的には人間の世界のうちに内在しつつも、本質的には
それを超越したところに教会の成立根拠があります。
ガラテヤ 1:15に 「恵みによって召し出してくださった神」 とありますが、 その神の恵みはキリストの十字架における贖いという、あのゴルゴタの丘での歴史的・客観的な出来事に如実に表されています。 恵みとは十字架の贖いであり、その福音はつまるところキリストご自身とイコールといって過言ではありません。
恵みによって召された私たちはまた、 祝福を受け継ぐため、永遠の命を得るために召されています(ペトロ 3:9、 Iテモテ 6:12 参照)。 このように、 恵みで始まり、 恵みで終わるのが私たち教会に連なる者の信仰生活です。代々の教会と同様、 私達の教会もまた終始恵みに貫かれた召命共同体であり、そのことがこの世に生きる教会の証しとなるのであります。
喜ぶ者と共に喜べ ローマの信徒への手紙 12:9-16
喜びと悲しみー これは言うまでもなく、 この世に生きる人間の心の最も直接的で具体的な表現です。バウロは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という15節の御言でもって、この世に生きるキリスト者か゛周りの人々と喜ひを共にし、悲しみを分かち合う、そうした開かれた生き方をするように、と勧めているのです。神に対して自らを開いている者は、人に対しても当然自らを開いているはずであります。
ひとは誰でも自分の喜びや悲しみを共にしてくれる人を欲しています。自分では一番してほしいと思うこと、そして他人に対してはしてあげるのが一番難しいこと、それが「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」ことではないでしようか。
それを考えると、私たちはなんと身勝手な存在か、と思わす゛にいられません。
ところで、15節でなぜ「喜ぶ人と共に喜べ」との勧めか゛先に来ているかといえば、「泣く人と共に泣く」ことよりもこの方が難しいので、それを先行させることによって、喜びに参与することの重要性を強調しようとしたのでありましよう。
主イエスは譬えの中で繰り返し私たちに「共に喜べ」と促されました。(マタイ25 : 21 , 23、ルカ15 : 6, 9参照)。
しかし、「共に喜ぶ」ということは「言うは易し、行うに難し」であります。
なぜなら、私たちは非常に嫉妬深くて、他人が喜んでいることを本心では承知できないからです。少なくとも、他人が自分よりも幸福であることは許せないことのように思うのです。反対に、人の失敗が自分の喜びとなる場合だってありましよう。これは今日の競争社会では珍しいことではありません。ドイツ語には「シャーデンフロイデ」(他人の不幸を見る喜び)という言葉さえある位です。
そこへいくと、「泣く人と共に泣く」方かまだやさしいと思います。同情することでひそかに自分の優越感を満足させることができるからです。問題は相手にはなくて、自分にあるということです。
この世に下って私たちと同じ人間の姿になられたキリストは、まさに「喜ぶ者と共に喜び、 泣く者と共に泣く」 ご生涯でした。 この主の深い愛と救いの恵みにあずかっ ている者は、 人と共に喜び、 また泣くことが何であるかか分かるのではないでしようか。 肉のカではなし得ぬことも、 聖霊の励ましと助けにより、 なし得る者と変えられていきます。 喜ぶ人と共に喜べば、 その人の喜びは倍加し、 泣く人と共に泣けば、 その人の悲しみは半減します。 兄弟に対するまことの愛の道はそこにおいて証しされるでありましよう。
救いは近づいている ローマの信徒への手紙13:11-14
待降節の事をアドヴェントと言います。ラテン語で「到来」といういみです。が、 これは聖書的にみて三重の意味を持っています。 ( 1 ) 過去の来臨 (キリストの降誕) 、 ( 2 ) 現在の来臨 (いま信じる者の心に来ておられるということ)
(3)将来の来臨(終末におけるキリストの再臨)です。
すでに主か降誕され、 今では 「キリストがわたしの内に生きておられる」以上 (ガラテヤ 2 : 20 ) 、 私たちとしては、 終わりか近づいていることを知ってそれに備えることこそ、 待降節の正しい迎え方、 過ごし方でありましよう。
「今や、 わたしたちか信仰に入ったころよりも、 救いは近づいている」 と 11 節にあります。 「信仰に入ったころ」 とは、 いうまでもなく私たちか洗礼の恵みによて神から義とされ、救われた時のことです。ところが、そのあとに「救いは近づいている」と書かれている これはいったい何故でしようか。
新約聖書をよく見ると、「救われた」(ェフェソ2 : 8 )、「救われている」(ローマ8 : 24 )、「救われるであろう」(マタイ10 : 22 )とあるように、救いは過去・現在・未来にわたってのものであります。ローマ13 : 11でいう「救い」とは、したがって、将来において完成される終末的救いをさしていることが分かります。いまは主の復活と再臨との中間時ですが、救いが完成する終末は近いのです。時々刻々、すべての時か神の定め給うものであってみれば、私たちは一瞬一瞬を、それこそ信仰の誠実をもって真摯に受けとめねばなりますまい。
パウロは時の認識を「夜は更け、日は近づいた」( 12節)と比喩的に言い表わしました。あたりは濃い闇にとざされています。しかし、夜か更ければふける程、夜明けもまた近くなります。現今の混乱にみちた暗い状況の中で、しかし信仰者は諦めや絶望におちいることなく、一心に闇をすかしながら、輝かしい暁の訪れを待ち受けます。なぜなら、義の太陽である主イエスご自身か゛、「わたしはすぐに来る」(黙示録22 : 20)と約束して下さったからです。
人間は少しばかり自己に負けはじめると、 たちまちもとの暗黒の中におちいってしまいます。 当座は闇にまぎれて人の目には隠れていようとも、 やがて日が昇って光にさらされるなら、すべては明らかになるのです。
それゆえ、 私たちは今のうちに闇の行いを脱ぎ捨て、 新しく主キリストを身にまといながら、 日中を歩くように、 品位をもっ て歩もうではありませんか ( 13節) 。
これはいわば 「夜明け前の倫理」 といっ てよく、 時の認識と終末の待望こそが、私たちを真の倫理的行動へと駆り立てるのであります。
福音の真理 ガラテヤ書2 : 1ー8
信仰告白の初めに位置する聖書についての告白では、 「キリストを証しし」に続いて 「福音の真理を示すもの」 とあります。 これはいわば言いかえで、 両者はひと連なりになっているといえましよう。
「福音の真理 」 という言葉はガラテヤ2: 5 , 1 4にそのまま出てきます。 パウロによれば、 福音とは端的に言ってイエス・キリストのことであります (ローマ 1 : 2一3の「この福音は・・・御子に関するものです」を参照)。
テトス2 : 11では、キリストが「現れた神の恵み」と表現され、イエスの受肉という歴史的事実が指し示されています。 イエスという固有名詞を「恵み」という普通名詞に置き換えたところに、すでにこの手紙の著者のイエス理解がしのばれるのであって、イエス・キリストは恩寵とも即福音ともみなされているのでありましよう。
またマルコ福音書では冒頭の句が示すように、主イエスの働きが福音そのものと受けとめられていますし、8:35と10:29での「わたしのため、また福音のために」という表現は、釈義的には「わたしのため、すなわち福音のために」が真意にかなっています。それゆえ、 こでは「イエスと福音とが同義語として扱われている」(マルクスセン)のであります。私たちはキリストについて考えずしては福音について語り得ません。福音という文字には、実は「イエス・キリスト」という見えざる振り仮名がついているといえましよう。
ヨハネ14:6によ;れば、キリストは真理そのものであられます。また、8: 32の「真理はあなたたちを自由にする」と同36節の「子(=イエス)があなたたちを自由にれば・・・」を比較して導き出されるように、真理とキリストとが同格とみなされます。ョハネ福音書での「真理」は歴史に歴史にその歩みをとどめたひとりの人格とかたく結びつきます。この「真理」には、さきの「福音」という語がそうであったように、「イエス・キリスト」という見えざる振り仮名が附されているのであります。
「福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように」(ガラテヤ2:5 )ーこれはガラテヤ教会に忍び込んできたキリスト教的律法主義者らによって「ほかの福音」( 1 :6 )にかぶれ始めた信徒たちに対するパウロの切実な願いです。まことの福音からそれる危険に陥らないためにも、福音の真理は信仰者の中に定住しなければまなりません。一時的な逗留ではだめであります。
聖書と信仰告白をとおして、常に教会の自己吟味をはかりたいものであります。
代々の聖徒と共に 1コリント1 5 : 1ー8
前にも触れたことですが、日本キリスト教団信仰告白の前半は宗教改革以来の プロテスタント教会の福音理解を鮮明に打ち出した部分で、それに使徒信条がつづくという二部構成になっています。両方を結ぶのは、「我らは各信じ、代々の聖徒と共に、使御言条を告白す」というつなぎの文章です-
前半の部分は、信仰告自の制定が1954年ですから来年でちょうど50年の歴史を経たことになりますが、使徒信条の方ははるかに古く、現在の形になったのは紀元8世紀頃といわれています。さらにその前身を間うならば、2世紀の後半ないし3世紀初頭のローマ信条にまでさかぼることができましよう。
古代教会の諸信条のうち、使徒信条は最も基本的なもので、今日ではカトリックとプロテスタントの別なく、世界中のほとんどのが用いており、少なくとも使徒信条において同じ土俵に立っているといえます。久しく使得言条を無視してきたギリシャ正教会でさえ、1927年、ローザンヌでの世界教会会議において、使徒信条を共通の信仰告白の根拠とすることに同意しました。よろこばしいことであります。主の祈りが「世界を包む祈り」(ティーリケ)とすれば、使得信条は「世界を包む信仰告白」といって過言ではありません。
したがって、「代々の聖徒と共に使徒信条を告白す」とは、まず第一に、時代をこえ教派ををこえて世界の教会が連帯するるエキュメニカルな性格をもったこの使徒信条の告白に、私たちも共に参与するという決意表明でありましよう。
「代々の聖徒と共に・・・」という文言が示す第二の点は、福音の中心酌な使信(ケリュグマといいます)がこの使徒信条にまとめられて継承されていったということです。Iコリント15:3でパウロは「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」と言っています。彼の宣教の核ともいうべきケリュグマは、パウロ個人が独創的に案出したものではなくて、彼が当時の教会から継承したものでした。すなわち、キリストの贖いの死、葬り、三日目の復活など(3節以下)であります。パウロはそれら原初の告白というべき信仰内容を教会から受け取り、それを他に手渡したということです。
いまや伝承の歴史は2千年近くに及びます。しかしその間、人々のこころがその伝えられた尊い福音によって動かされなかった時代は一つとしてなく、彼らが受け取った使信によって、生かされなかった時代はーっもありません。
Iコリント11:2に「伝承をを堅く保持している」(岩波版訳)とあります。私たちもそうした告白共同体であり続けたいものであります。
主の死の告知 第一コリント1 1 : 2 3ー2 6
主イエスがお語りになった言葉の記録 として年代的に最も古いものは、 実は福音書ではなく、第一コ リント11:23-26でのいわゆる 「聖餐制定の言葉」であります。第一コリント書は紀元55年の春頃執筆されたといわれていますが、パウロは初代教会で伝えられていた聖餐伝承をここに書きとめたのでした。
主イエスは24節と25節で 「パン」 と 「杯」 (ぶどう酒) という二重の比喩を用いられました。 私たちはその意味を取り違えないよう、 正しく理解しなければなりません。
パンを食べて栄養をとるためには、 パンの科学的成分を理解する必要はありません。 しかし聖餐にあずかる場合は、 ロにするパンとぶどう酒について、 それが何を意味するか理解 しておかなければなりません。 パウロは 「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者」(29節)を批判しています。
主イエスが「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(ヨハネ6 : 56)とおっしやったとき、聞いた人々の多くは「実にひどい話だだれが、こんな話をきいていられようか」(60節)と言って主のもとを離れ去りました。人肉を食し人間の血をすすることと誤解し、何とグロテスクで非人道的なことよ、と反発したわけです。でも主は「肉を食べ血を飲む」という言い方でもって、キリストとの深い交わりに入り、霊的な永遠の命を受けることを言おうとされたのでした。
26節をみると、「あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」とあります。「主が来られるとき」 とは、キリストの時、すなわち終末をさしています。説教会は説教だけでなく、聖餐をとおしてもまた、世の終わりまで「主の死を告げ知らせる」一一その意味で聖餐は「目で見る福音」といえましよう。
聖餐は主の十字架の死を宣べ伝える告白の行為となり、かの最後の晩餐がくり返し再現されるドラマとして、主の救いの出来事を人々に告げ知らせるメディアとなります。聖餐は広い意味での証しや伝道と深く結びついているのです。初代教会の人々も、集まるごとに主の晩餐を祝い、そのことによって伝道への思いや決意を固めたにちがいありません。
「あなたがたのために私は自分自身を与えた」と語りかけ給う主イエスは、私たちが自分の隣り人に、 「あなたのためにも主はご自身 をお与えになった」と告げ知らせるよう、 私たちを促します。 恵みの通り良き管となりましよう。
聖餐の意味 第一コリント1 1 : 2 3一2 6
私たちプロテスタント教会では、洗礼と並ぶ聖礼典として聖餐を守っていますが、これは人間の側で相談のうえ取り決めたものではありません。きようの箇所の24ー25節に繰り返し、「わたしの記念として」とあるように、主イエスご自身最後の晩餐でなさったことをのちの世にも教会の聖礼典として続行するよう制定なさったのであります。「このように行いなさい」とお命じになった以上、聖餐は、してもしなくてもいい、といったものでは決してありません。
私たちはキリストの裂かれた体、流された血をあらわすパンとぶどう酒をいただくことによって、私たちの罪のために十字架の死を引き受けてくださった贖いの事実をそのつど確認するのでその意味で、聖餐は何よりもまず、過去の恵みに、対するく血のわざ>であります。
とは言え、聖餐は単なる歴史的追憶のために行われるものではありません。主イエスはヨハネ福音書6 : 5 6でおっしゃいました、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつももわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」とこれはまさに、聖餐をとおして私たちが復活の主との深い交わりにに入れられることを予告したものでなくて何でありましょうか。聖餐が英語でH0ly Cmmunion<聖なる交わり>と呼ばれている所以です。
このように、聖餐は今も生きてご臨在しておられるキリストとの交わりであり、それによってもたらされる信徒相互の一致のしるしでもあります。そこに現在の恵みが示されるわけであります。
最後に2 6節を見てみましよう。「あなたがたは、このパンをたべこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」一一「主が来られるとき」とは、キリスト再臨の時、すなわち終末をさしています。それゆえ、聖餐は私たちに約束された救いの完成をも視野に入れてなされるく神の国の食事>であり、終末の祝宴といえましよう。このように、聖餐は未来の恵みともかかわっています。
教会は、説教だけでなく聖餐をとおしてもまた、世の終わりまで、「主の死を告げ知らせる」のであります( 2 6節)説教が「耳できく福音」とすれば、聖餐はいわば「目でみる福音」といえましよう。
想起のわざ、聖なる交わり、終末の祝宴の先取りである聖餐を、キリストの過去と現在と未来にかかわる恵みの証印として、これからも大切に守っていきたいものであります。
霊に教えられた言葉 第一・コリント 2 : 6一1 6
使徒言行録17:18を見ると、 アテネに住むエピクロス派やストア派の哲学者たちがパウロと討論 したことが記されています。 古代ギリシャの哲学とキリスト教の福音がぶつかり合ったこの討論は平行線をたどったようで、 哲学者たちはパウロの説く福音を十分理解できませんでした (使徒17:18-20参照)
そこでバウロは何とtか福 音を受けいれてもらえるよう、 彼らの思想や考え方との接点がないものかと苦心しながら、22節以下であの有名な 「アレオパゴスの説教を始めるのであります。哲学が<下から上へ >と真理を探求するものであり、福音がく上から下へ >神から真理 が開示されるものだとしたら、 パウロがあの説教で試み ようとしたのはく下から上へ>の道ではなかったでしようか。 たとえば27節で 「彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができる・・・」 と述べたのも、彼らの関心を引くために調子を合わせようとしてのことでしよう。
しかし、説教がついにキリストの復活に言い及ぶと、ある者はあざ笑い、ある者は「それについては、いずれまた・・・」と言いました(使徒17:32)。アテネでの伝道は失敗に終わり、意気消沈したパウロは傷心をいだきつつ、アテネを去ってコリントへ行きました(使徒18 : 1、第一コリント2 : 3参照)。
アテネでのにがい経験からパウロが悟ったことは、徒らに相手の波長に合わせて人の知恵を用いたりしても、道はひらけないということでした。第一コリント 1 : 21に「世は自分の知恵で神を知ることはできませんでした」とあります。こうしてバウロは、く下から上へ>という取り組みでなく、あくまでもく上から下へ> という福音の筋道にしたがい、「宣教という愚かな手段」(21節)を採ることを胆に銘じたのでした。福音宣教は「人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、"霊"に教えられた言葉による」(2 : 13)ということです。
私たちは、 世の霊ではなく、 神からの霊を受けました。 それによって、 私たちは 「神から. 恵みとして与えられたもの」 (神との和解 、 罪の赦し、 永遠の命など) を知るようになったのです。 (12節)。 それはキリストの死と復活によってもたら
された祝福で す。キリストという釘には祝福の衣がかけ られています。 しかし、私たちは背がが低いため、 そこまでは届きません。 それで聖霊 がその衣を取りおろして私たちに渡してくださいます。これによって初めて、 祝福は現実に私たちの
ものとなるのであります。
「霊に教えられた言葉」 として一一一これは説教 を語る者の課題 であリますが、同時に説教を聴く者に神から求められる でありましよう。
贖いとなられた主 第一コリント1 : 2 6ー3 1
日本キリスト教団 信仰告白の前半の中で、 「(主キリストが) わたしたちのあがないとなられました」 とあります。 この文言は明らかに第一 リント1: 30後半の「・・・贖いとなられたのです」から採られています。
そもそも、「贖い」とはどんな意味を持っているのでしようか。試みに新共同訳聖書のうしろに収められた 「用語解説」 をのぞいてみると、 次ぎのように説明されていま 「旧約では、財産や他の買い戻し、身代金を払っての奴隷の解放、人間の代わりにいけにえをささげること等をさし、新約では、キリストの死によって人間の罪が赦され、神との正しいに入ることをさします」。
「贖罪の献げ物」という小見出しがついたレヒ゛記4ー5章で規定されているように、イスラエルでは昔から祭壇に山羊、羊をいけにえとしてささげ、神からの赦しを仰ぎ求めるという贖罪制度が設けられていました。その際肝心なことは、動物ののどをかき切って血を流出せしめることです。レヒ゛記17: 11に「血はその中の命によって贖いをする」とあるとおりです。動物を屠る前にその頭に手を置くのは、その動物を自分の代理とみなす象徴行為であり、血をささげるのは、奉献者が神に命を献ることを表しています。ローマ書3:25の「神は・・・その(キリストの)血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」には、そうした旧約的背景があるといえましよう。
「贖い」にはまた、身代金を払っての奴隷の解放の意があり、それが第一コリント7:22において主キリストに贖われた私たちキリスト者に適用されています。
「主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。あなたがたは、身代金( (キリストの血と命! )を払って買い取られるたのです」。
さて、今朝の個所に「このキリストは・・・義と聖と贖いとなられたのです」(30節後半)とありまrす。贖いの究極的な動機は言うまでもなく私たちに対する神の愛ですから、こ こは「義と聖と愛」と言い換えることもできましよう。とすれば、神の三大本質がそろって示されていることになります。イエス・キリストは、その十字架の贖いをとおして、義なる神、聖なる神、愛なる神となられました。すでにイエスご自身がヨハネ14:9で「わたしを見た者は、父(神)を見たのだ」 とおっしやったように、 主イエスは父なる神と同一本質であり、 そのことはニケア信条(325年)の中でも明白に表明されています。
イエスの十字架によって、 私たち自身も義とされ、 聖なる者とされ、 贖われました。この救いの恵みに常に固着し、 信仰の応答を続けたいものであります。
十字架のキリスト Ⅰコリント 1:1 8一2 5
日本キリスト教団信仰告白の前半では、「十字架にかかり」という短い句に続いて「ただ一度ご自身を完全な犠牲として神にささげ、わたしたちのあがないとなられました」とあります。これによって、使徒信条が単に「十字架につけられ」と客観的に記した事実が、私たちにとって主体的に抜き差しならない救済的な意義をもつ出来事であることが明確に告白されるのであります。
十字架なくして救いなし一一これは初代教会以来、キリスト教が一貫して主張してきたところです。十字架がキリスト教のシンポルとなったのも当然といえましよう。
けれども、普段見慣れている十字架であるだけに、私たちはどうかすると、それが人をはりつけにする恐ろしい処刑の刑具であることを忘れがちではないでしようか、キケロが語っているように十字架刑はあらゆる死刑のうちで最も残酷な忌まわしい刑方法であり、人々に身の毛のよだっ思いをいだかせました。
ところが、パウロは第一コリント1:で、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べつたえています」と述べています。これは考えれば大変なことであります。神から遣わされた世の救い主が十字架につけられた?極悪人が受けるべき恥ずべき十字架の死が私たち人間にとって救いの出来事になった?これは当時の人々にとって受け入れることのできない馬鹿げたメッセージでした。申命記21・23によると、木にかけられた者は神に呪われた存在ですから、十字架にかけられること自体、イエスが救い主でないなによりの証拠とみなされます。十字架のキリストは、まさに「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」(Ⅰコリント1:18)でしかありませんでした。
しかし、躓きにみち愚かとみえるキリストの十字架には、実は神の知恵がひめられ、私たちをめざしての、はっきりした目的が託されていました。主は私達たちが罪に死に、義に生きるために、十字架に私たちの罪をご自分の身に負われましたそれゆえ、私たちはキリストの十字架にわたしたち自身の罪のきわまりを見ると共に、神の愛のきわまりを見ます。そして幸いなことには、人間の罪よりも神の愛の方がはるかに深く大きいのです。このすばらしい福音を、パウロは「十字架の言葉」(1コリント 1: 18) と言い直しまし た。そこにキリスト教の神髄があり、信仰の核心があるといわれねばなりません。
私たちもパウロたちと同じように、 さまざまな抵抗や無理解、 時に嘲りを覚悟しながらも、臆せず大胆に十字架のキリストを証しし、伝えたいものであります。
十字架の言葉 第一コリント1 . 1 8ー2 5
使徒信条において、キリストの苦難と死をつないでいるのは「十字架につけられ」という一句です。パウロにおいても、その宣教と知識の内容は「十字架につけられたキリスト」でありました( 1 : 23、2 : 2参照)
主イエスの死は老衰によるのでも、病死や事故死というのでもなく、残酷この上ない十字架での刑死でした。彼は朝9時から昼の3時まで、実に6時間に及ぶ死の苦悶をなめなければなりませんでした。そのイエスを祭司長や律法学者たちは口々に嘲弄し、「今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」(マルコ15 : 32 )と申しました。パウロが今朝の箇所の22節で、「ユダヤ人はしるしを求め、」と言っているとおりです。
主イエスはかって、ご自分が殺されることを予告なさいました。その時、弟子のベトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(マタイ16 : 22)と申しました。イエスをキリストと告白したばかりのベトロにとって、救い主が十字架にかかるなんて思いもよらないことでした。何しろ、旧約の律法によれば、「木にかけられた死体は、神に呪われたもの」(申命記21 : 23 )ですから、十字架につけられること自体、救い主ではない何よりの証拠とみなされます。十字架のキリストは、まさに「ユダヤ人にはつまずかせるもの」( 23節)でありました。
一方、異邦人にとてはどうだたでしよう。知恵を求めるギリシャ人はキリストの福音をあざ笑い(使徒言行録17 : 32)、口一マ人フェストウスはキリストの十字架と復活を語るパウロを狂人呼ばわりしました(同26 : 24 )。このように十字架のキリストは「異邦人には愚かなもの」( 23節)でしかなかたのです。
しかし、愚かとみえるキリストの十字架には、実は神の知恵がひめられ、私たちをめざしての、 は きりした目的が託されていました。 主は私たちか罪に死に義に生きるために、 十字架にかかって私たちの罪をご自分の身に負われました。
それゆえ、 私たちはキリストの十字架に私たち自身の罪のきわまりを見ると共に、神の愛の極まりを見ま幸いなことには、ことには、 人間の罪よりも神の愛の方が、はるかに大きいのです。 「十字架は神の愛の至高の表現である」(ニグレン)と言われるゆえんです。
ローマ1:16で「福音は神の力だ」と記したパウロは、ここ1:18で「十字架の言葉は神の力だ」と述べています。福音が十字架の言葉と言いなおされているところに、キリスト教の神髄があり、信仰の確信があると言わねばなりません。
アー メン 使徒信条の結び 第一コリント1 : 1 5ー2 2
神学者のティリッヒが「受容を受容する」(accept acceptance)ということを言いました。信仰とは神に受けいれられていることを受けいれること、といえましよう。そして、この受容なくして賛同はなく、賛同なくしてアーメンと言うことはできません。なぜなら、アーメンとは、元来ヘブル語の名詞「エメス」(真実)に由来する副詞で、「まことに」とか「然り、その通りです」といった賛同の意を表わす言葉だからです。
私たちは、主の祈りのときと同様、使得言条においてもその最後に「アーメン」と唱えます。そのことによって、自分の言いあらわした告白を確認し、その内容にく私>の全人格をかけて心からの同意を表明するのであります。そのことからいえば、アーメンは「私の真実にかけて言います」にちがいないのですが、その「まことに」はまず神の「まこと」を根底とし、「アーメンである方」(ヨハネ黙示録3 : 14)すなわち主イエスに依拠していますから、むしろ、パウロが第二コリント11:10で述べているように、「わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います」というのが正しいでありましよう。
神の真実は、単に私たちの内面においてのみ実感されるのではありません。天地創造このかた、時間と空間とを舞台とする現実の歴史において具体的に示されてきたのです。とりわけ、旧約の時代に預言者たちをとおして告げられた神の約束は、ことごとくイエス・キリストにおいて「然り」となりました(二コリント 1 : 20前判。)
使得言条を最後にしめくくるのもまた、私の真実ではなく、これまでく告白なき信仰>の域を出ないで逡巡していた私を導いて、ついに「われ信ず」との告白をなさしめ給うた神の真実であります。なんと忍耐強い、恵みにみちた御心でありましようか!
「わたしたちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』と唱えます」 (同20節後半)ーー このように、アーメンがめざすのは神賛美ですから、アーメンで結ばれる告白それ自体、賛美となります。原始教会における信仰告白定式にふれて、シュタウファーは次のように指摘しました、「多くの信仰告白は讃美歌的性格を。そして多くの讃美歌は信仰告白的性格を持っている」と。
使徒信条にしても、その告白はおのずと讃美となり、賛美がまた告白ともなっていることを思わせるられます。
「アーメン」は、それ自体はまことに小さな言葉ですが、私たちの信仰告白を神賛美へと至らせるく恵みの扉>であります。
信仰による従順 ローマ16:17-27
パウロは手紙の冒頭て゛自らを「キリスト・イエスの僕(1-1)と紹介しています。僕の働きは主人に仕えることで。クリスチャンとはそもそも主キリストに仕える僕であります。
では、僕の条件は何でしようか。それは何よりも主人に対して従順であることでしよう。その意味で、ローマの信徒たちも良き僕でありました。それはパウロが、「あなたか゛たの従順は皆に知られています」( 16:19)と称讃し、彼らのことを喜んでいるのでも分かるでしよう。
16:19と同じ称讃の言葉は1:8でも述べられています(「あなたがたの信仰が、全世界に言い伝えられている」)。両者は明らかに共通しています。パウロにとって、信仰は従順と同義的であり、「信仰による従順」(1: 5と16:: 26 )に等しいことを示されるのです。
パウロが信仰を「従順」と言い表したことで、おのす゛と「信仰と行為」の問題か浮かび上ってでてきました。従順というのは単に人間の内面的・精神的な範疇にとどまるものではありません。信仰が従順の行為と結びつく以上、「信仰か行為か」というような二者択一はまちがています。また、カトリックのように「信仰プラス行為」という図式も聖書に反するもので非福音的といわざるを得ません。
では、信仰と行為を聖書的に関係づけるとしたら、どういう見方が正しいのでしようか。それは「信仰から行為へ」というとらえ方です。マタイ7 : 17とヨハネ15 : 5の御言を参考にして言うなら、まことのぶどうの木(イエス)にしかりつながていること(信仰)から良い実(行為)が結ばれていく、ということです。「信仰から行為へ」一一主イエスもパウロも、その説くところは基本的に変わらないといえましよう。
ところで、16 :19後半の「善にさとく」とは、神の御旨をわきまえ知って、それを行え、ということです。「悪には疎くあれ」とは、悪の源である肉的な欲望や罪に誘惑されないで、神の御心に従順であれ、ということです。したがって、パウロがこの16 : 19全体で言いたいのは、ローマの信徒たちがいま従順であるように、さらに従順
であり続けることを願っている、ということなのです。彼はこの19節の発言によってこの手紙の執筆の目的と意図を言い表しているわけです。
愛する皆さん、私もまたあなたがたの従順が皆に知られていることのゆえに、あなたがたのことを喜んでいます。同時に、皆さんが「善にさとく、悪には疎く」あること、信仰の従順を生涯貫かれることを願ってやみません。
パウロの協力者ブリスカとアキラ ロマ16:1-16
16章3:16節はバウロからの個人的な挨拶の部分で、26名もの人名が連なって出てきます。
この長い挨拶のリストをたとってみて気付くのは、そこに血のかよった温かい愛の連帯の生命か脈打ていることです。人種や身分も違い、背景がさまざまに異なる人々が、しかもみな「主に結ばれて」ひとつになっています。 パウロはそのことを何よりも喜びつつ、ひとりひとりにこまやかな心づかいと行きとどいた愛を示しています。
ここでは、特に3, 4節のプリスカとアキラという夫婦について見てみましょう。新約に6回登場しますが、そのうち4回まで妻プリスカの方か先になっています。これは封建的な当時としては異例のことで、あるいはプリスカが伝道活動の面で夫アキラよりすぐれた働きをしていたためかもしれません。
ローマ人の貴族出身と思われるプリスカと黒海南岸のポント出身のユダヤ人で天幕造りのアキラが口一マで出会い、人種や身分をこえて結ばれました。しかし紀元49年、クラウデイウス帝による口一マのユダヤ人追放令により、コリントに移り住み、そこで初めてパウロと出会ったのでした。パウロは3, 4節てこの夫婦を「わたしの協力者」と呼び、「わたしのいのちを救うために、自分の首をさえ差し出してくれた」(ロ語訳)と言っています。彼らのような文字どおり献身的な協力者がいたからこそ、パウロは存分に働けたのでした。
二人はローマからコリント、次にエフェソ、そしてまたローマへと流転の生活を送りました。しかし、どこに住んでも彼らはそこで自分たちの家庭を「家の教会」として、主にある交わりと礼拝のために開放しました。それで彼ら夫婦のことは各地の信者たちに知られ、どこでも大いなる尊敬と信頼とを表せられたようです。パウロが、「わたしだけでなく、異邦人のすべての教会か感謝しています」 ( 4節)と記しているのは決して誇張ではありません。
使徒言行録18 : 24以下によると、アポロという雄弁家がエフェソに来て、会堂で大胆にキリストの宣教を始めました。これを聞いたプリスカとアキラは、アポ口がヨハネの洗礼しか知らす、福音理解も曖昧かっ不十分なのを見てとって「彼を招いて、もっと正確に神の道を説明しました(同26節)。公けの場で批判したりせず、ひそかに自宅へアポロを招いた点に、二人の奥床しさを感じます。
地下に埋まった水道管のように、目立たないけれども、たしかな命の水を供給たこの夫婦の生涯こそ、私たちの理想的信徒の姿ではないでしようか。
ローマへしかしまずエルサレムへ ローマ15:22-33
バウロは長い間、 全ローマ帝国の首都ロ-マへの訪問を切に祈り求めていました。そのことはこの手紙の1章と15章で繰り返し表明されている通りです。
でも、ローマはパウロがめざした最終の目的地ではありませんでした。15 : 28 で彼は「イスパニアに行きます」と言っています。イスパニアは現在のスペインのことで、当時は「地の果て」と考えられていた全くの僻地でした。
ところが、パウロは希望していたイスパニア行きを果たせませんでした。なぜなら、彼は25節で「しかし今は-ェルサレムへ行きます」と述べ、予定とおり工ルサレムへ行くのですか゛、そこでユダヤ人たちに捕えられ、ローマ兵の囚人として護送され、ネロ皇帝のときに殉教してしまったからです。
では、パウロはなぜローマ行きの前にエルサレムへ行こうとしたのでしようか。その直接の目的はマケドニアとアカイア州の人々から預かった献金を届けることでした。そうした経済的援助は道義的責任からいっても当然のことでした。福音はエルサレム教会から広がって異邦人にも救いが及んだわけですから、彼らは「肉のもの」(献金をさす)でエルサレム教会を助ける義務かあります。
工ルサレム教会としては、献金の受領はひいてはパウロが唱える信仰義認とそれに基づく異邦人伝道を改めて承認することでもありましたし、パウロの側からいえば、献金の持参はエルサレム教会か異邦人教会に交わりの門戸を開いてくれることを求めての懸命の行動だったといえましよう。
そうした重要なエルサレム行きの予定がある限り、パウロはすぐには口一マへ行くことができません。福音の自由のために、またユダヤ人と異邦人を含む諸教会の一致のために、エルサレム行きは必要不可欠と考えられたのでした。
もっとも、パウロがそこでどう迎えられるか全く予測がっきませんでした。31 節での「わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように」という言葉は、裏返せば事態が楽観を許さないものであることを物語っています。パウロは不安と緊張の中にあったといってよいでありましよう。
しかしそれでも、パウロはエルサレムへ出かけて行くのであります。その後の経緯は彼の予想をくつがえすものとなりましたが、パウロは囚人として捕えられて護送される途中でも、 またローマに着いて飲禁状態に置かれてからも、 あらゆリストの福音を宣べ伝えました。
私たちもパウロにならい、 どんな時にも御言を宣べ伝えたいものであります。
神のために働く ローマの信徒への手紙15:14-21
誰でも、みんながやり出した後でそれを真似るのはわけないことです。しかし人がしないことを率先してやるのは一通りでない勇気を要するものです。
バウロもまた、神の良き音信をまだ一度も聞いたことのない人々の所、霊的に未開の地へ出かけて行って福音を伝えるのが彼の聖なる野望でした。20節で「キリストの名がまだ知られていない所て福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです」と述べているとおりです。 ここには、異邦人伝道に結晶したパウロの熱い開拓者精神( fronter spirit)がうかがえます。
19節に「エルサレムからイリリコン州まで巡って」とあります。ェルサレムはバウロが晴れて異邦人伝道を公認された所、イリリコン州(マケトニアの北に隣接するローマの属州)は彼の伝道範囲の極限を示す意味であげられた地名でありましよう。バウロはこのように驚くほど広汎な地域でキリストの福音を満たしてきたのです。単に宣べ伝えられるだけでなく、地に神の国(キリストの支配を) の行われる領域を生み出すこと一それが福音の本質であり、またバウロの伝道のめざした点でありました。
「わたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています」( 17節)・・主語はいうまでもなく、「わたし」パウロです。ところが、次の18節に何と書いてあるでしようか。「キリストがわたしを通して働かれた」とあります。主語は「キリスト」です。つまりパウロは、「この私をとおしてキリストが働かれたのであて、すべてはキリストご自身のみわざです」と言っているのであります(ーコリンント15:10後半にも同様の発言がみられます)。
節をさらにさかのぼって、16節を見てみましよう。ここには「仕える者」(礼拝者の意)、「祭司」、「供え物」といった礼典的・祭儀的な用語が並んでいます。パウロが使徒職を与えられたのは、①異邦人のためにキリストに「仕える者」となるため、2福音のために「祭司」の役を務めるため、③異邦人を、聖霊によってきよめられた、神に喜ばれる「供え物」とするため、でありました。
きようの簡所の結び、21節はイザヤ書52:15の引用です。主の御言は、いまだこれを聞かず、知らなかた人々のもとにも必ず届く・・・ バウロはこの旧約の預言に彼の宣教のわざの道しるべの星を見つけた、といえましよう。
皆さんの周囲に神の福音がまだ届いていない所があるとしたら、そこがあなたのフロンティア(辺境)です。
神のために働きましよう!
異邦人のために ローマ1 5 : 7ー1 3
ロ ーマ教会はその場所柄からいって、 ユダヤ人と異邦人との混合教会でした。
ギリシャ ・ロー マの異教社会で育った異邦人キリスト者とイスラエル固有の宗教的伝統を受けついでいるユダヤ人キリスト者とでは、生活習慣や物の考え方に何かと相違がみられたとしても不思議ではありません。 教会の中はいっしか二つのグル プに分かれ、お互いに他を批判し、 時には反目したりすることさえあったようです。それはけっして信仰の証しにならない困った事態でした。
そこでバウロは、キリストに受け人れられた信仰者同志である以上、「互いに相手を受け人れなさい」( 7節)と勧告するのであります。主のみ前では、もはやユダヤ人と異邦人の区別はなく、みな対等なはずです。サンダースは、「口一マ書の唯一の最重要の主題は、ユダヤ人と異邦人の対等性の問題である」とさえ言っています。
私たちが日本人(文字どおりの異邦人! )でありながらクリスチャンとされているのは何故かーそれはイエス・キリストが異邦人である私たちをも受け人れてくたさっているからにほかなりません。「受け人れられていることを受け人れる」一それが信仰といえましよう。
8節と9節で言われていることは、つまるところ、キリストにおいて旧約の預言か゛成就したこと、しかもそのキリストはユダヤ人と異邦人の救い主となられたという二つのことです。イスラエルに与えられた民族復興の預言と全世界に救いカ吸ぶという万人救済の預言とが共にキリストにおいて成就した、とパウロは見たのであります。とすれば、キリストに贖われた教会はあらゆる人々をその中に包含するものでなければなりません。この重大な結論をさらに論証すべく、パウロは旧約聖書から4つの引用を重ねます( 9ー12節)。それらはいす゛れも、異邦人が救われて神をはめたたえるに至ることを述べたものです。
異邦人の救いは初めから神のご計画に含まれていました(創世記12 : 3参照) バウロは自らをその代行者とみなし、11 : 13で「わたしは異邦人のための使徒である」と述べ、実際に驚くほど広汎な異邦伝道を展開しました。
異邦人である私たちは、かってキリストと関わりなく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きてきました(工フェソ2 : 12 )。いま神の救いにあすかっている者として、これからは「救いを、もたらす者」(イサヤ49 : 6 )となろうではありませんか。
礼拝はその良い機会です。ひとりがひとりを導きましよう!
誰を喜ばせるか ローマ15:1-6
わか゛子が喜ぶ姿を見て幸せに思わない親はいないでありましよう。夫婦にしても、たとえば結婚記念日のプレゼントは、できるだけ相手を喜ばせようと考えて選ぶはずです。
今朝の簡所の前半、1~3節には「喜ばせる」という動詞か3回も出てきます (もっとも、新共同訳は1節と3節で満足を求める」、2節で「喜ばせる」と訳し分けていますが、原語はどれも同じです)
バウロが言う「強い者」(福音の自由に生きている信徒)はどうかすると弱い者(今なお律法に縛られている信徒)への思いやりに欠け、自分た゛けを喜ばせるという危険を持っています。自分を喜ばせるとは、簡単にいえば自己満足ということで、実はそこに人間の自己中心主義の非常に深い根があるというべきであります。だからこそ、パウロは強い者にむかて、「強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」と述べ、更には「隣人を喜ばせ」るように、と勧めるわけであります。( 1 , 2節)。
キリスト者はいかに生きるべきか この点においては、つねに信仰と愛の二つが求められます。信仰は神と私との関係を語りますか゛、私と隣人との関係について語るのは愛です。貨幣は片面だけ刻印されていても貨幣として通用しません。それと同し゛ように、私たちキリスト者の生活も信仰と愛の両方か相まってこそ本物といえましよう。
隣人を喜ばせることはけっして人のご機嫌をとったり媚びへつらうことではありません。真の隣人愛は「互いの向上に努める」ものです( 2節)。めざすべきは信仰の成長と強化であり、それか益となて隣人を喜ばせるのです。そのことはまた、「神に喜ばれ」ることにもなるでありましよう( 12 : 2参照)。
さて3節では、いささかもご自分の満足をお求めにはならなかたキリストか゛私たちの模範として述べられ、「神をそしる者のそしりがキリストにふりかかた」という風に、キリストの受難と結びつけて解釈された詩編69 : 10の御言力、引用されます。世を救おうとして、かえて神を信じない者たちからそしられ給うたキリストの受難こそは、ご自分を喜ばせることをなさらなかた何よりの証明ではないでしようか。「強くない者の弱さを担う」ことは、私たちの課題である前にまず主が私たち罪人のために十字架を担い給うたことで果たされました。
5節に「キリスト・イエスに倣て」とあります。お互い、,イミタチオ・クリスチの道を歩む者でありたいと思います。
神の国とは? ローマ 14:13-23
新約聖書でのバウロに関する記事(使徒13章以下およびパウロの名による13通の手紙)は章数にして103章分もあります。これは主イエスについて記された4 つの福書書の計89を上回っています。単に分量た゛けをみても、新約聖書に占めるバウロの割合は予想以上に大きいといえましよう。パウロの伝道と神学がなかったなら、キリスト教は今日のような世界宗教になり得なかったに違いありません。「イエスかパウロか」という間題か生し゛てくるゆえんてあります。
そこで、主イエスの宣教とパウロの宣教の内容を一言であらわすような、鍵となる言葉をさぐってみましよう。
イエスの宣教の主題は明らかに「神の国」で、福音書に120回ぐらい出てきます(パウロではわずか、7回)。「神の国」とは存在よりも状態をさし、「神の支配」という意味かあります。
一方、バウロの宣教のキー・ワードは「神の義」で、動詞の「義とする」をも含めると、パウロの手紙に74回(うち、ローマ書に48回)用いられています。
ところで、イエスの「神の国」とパウロの「神の義」とは全く別のものでありましようか。そうではないと思います。その証拠に、両者が結びついている所が新約聖書の中に少なくとも二箇所あるのであります。
ーっはマタイ6 : 33の「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」、もう 1つはローマ14 : 17の「神の国は- -義と平和と喜び」です。前者で並記されて いた二つのものは、後者ではイコールで結ばれ、より密接になっています。
神の国は義です。それは神から賜わるもので、私たちか゛初めに造られた時のように神に良しとされ、失われていた神との交わりが回復することです。その意味で、義は神と関わります。信仰によってそうなるのであります。
次に、神の国は平和です。それは隣人と関わります。愛によってそうなるのです。神とのタテの関係があればこそ、隣人とのヨコの関係も真実に成り立っといえましよう( 18節の「神に喜ばれ、人々に信頼されます」を参照)。
更に、神の国は喜びです。それは自分自身に関わります。希望によってそうなるのであります。12 : 12に「希望をもて喜び」とあるとおりです。
「実に、神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17 :21)と主は言われました。キリストとの生きた交わりがあるところ、聖霊によて義と平和と喜びが与えられます。それは神の支配が及んでいる何よりの証しとなるでありましよう。
「キリスト者の生活とは神の支配のもとに生きることである」( C. H.ドッド)。
わたしたちは主のもの ローマ14:7-12
ひとは普段なにを求めているかによって、 そのく人となり>か゛分かると申します。パウロは、「人はみな、自分のことを求めるたけで、キリスト・イエスのことは求めていない」 (フィ リピ 2 : 21 ロ語訳) と言っています。
ところか、同じバウロがきようの箇所の7節で、「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません」 と述べています。この矛盾とも思える発言はとうしたことでしようか。
これは次節を読むと分かります。ここでいう一わたしたち一とは、かって自分の欲するままに生きていたのが、キリストを信じている今は、もはや自分のためにではなく、「主のために生き、主のために死ぬ」( 8節)そのような者に変えられたキリスト者で。そして、この「主のために」という信仰者の在り方は、
8節の終わりでいわれている「わたしたちは主のもの」という本質からおのずと生まれてくるのであります。
私たちはなぜこの世に生を享けているのでしようか。それは「主のために生きる」ためです。日常茶飯事を含めて、私たちの個々の営みは、信仰者である以上、すべて救い主キリストに向けられます。なぜなら、私たちの人生そのものかことごとく主の栄光に帰せられるべきものだからです(lコリント10 : 31参照)
この世界が神の栄光の劇場(カルヴァン)なら、私たちの人生はさしすめ神の栄光の舞台といえましよう。役柄は人によて異なりますが、お互い表わそうとするところは一つ神を賛美することです( 11節参照)。
同し舞台に立つにせよ、そこが神の栄光の舞台であると知らなければ、その人は(「マクベス」の台詞にあるように)ほんの自分の出場の時だけ舞台の上でみえを切ったりわめいたり、とどのつまりは消えてなくなる哀れな役者といわねばなりません。自分のためにだけ生きようとする者は、結局このように空しくみしめな人生で終わってしまうのであります。
終末において神の裁きの座の前に立っ時、私たちは一人一人、自分のことについて申し開きをしなければなりません( 10, 12節)。でもその裁きの座は、信仰者にとっては決して恐ろしいものではありません。神ご自身の口から、「あなたは主のものであり、義とされている」と無罪を宣告して下さるからであります。
「クリスチャン」 とは元来 「キリストのもの」 という意味で 。 「わたしたちは主のもの」 ハイデルベルク信仰問答が述へているように、これこそは私たちが生きている時も死ぬ時も、「ただーっの慰め」であります。
人を受け入れる ロ-マ1 4:1-6
この手紙の宛て先であるローマ教会の信徒の中には、肉食を避け、菜食主義でいく人々がいました。それは市場で買ってくる肉が、ひょっとして異教の偶像神に供えられ、それゆえ汚れたものとなって市場に払い下げられた可能性があるので、それを恐れたわけです。
この厳格な禁欲主義と並んで、他方にはこだわりなく肉を食べてよいと考える自由主義も、同し教会の中にありました。パウロは前者を一信仰の弱い人」、後者を「信仰の強い人」と呼んでいます。でも彼は、相反する二つの立場のいずれか゛正しいか、ということを論したり決定づけようとはせす、むしろ教会の一致を願いつつ、両者をいましめるのであります。
「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食へない人は、食べる人を裁いてはなりません」( 3節a )。自由主義者と禁欲主義者がお互い相手を軽蔑したり裁いたりするのは両者かおちいりやすい誘惑ですか゛、それを克服する道を、パウロはその次に示すのであります。
「神はこのような人をも受け入れられたからです」(3節b )。神が受け人れ給うた人々を軽蔑したり裁いたりするならば、それは神ご自身を軽んし、神ご自身を裁くことに等しいといわねばならず、神のあら探しをするようなものです。
あなたはキリストを信していますか。信し゛ているなら、あなたは自由になった者です。自由であれば、あなたは強い者です。強い者であるならば、あなたは信仰の弱い人を受け人れなくてはなりません。
もちろん、受け入れにくい人を受け人れるのは難しい。もし受け人れたら自分がつぶされてしまうと思て、自分の心を閉ざしてしまう場合だてありましょう。そんなときは、ぜひ十字架のキリストを仰ぎ見て下さい。
「相手を受け人れることが自分にとて死を意味するような時には、自分が受け入れられるためにキリストが死んで下さたことを思いなさい」(D.ポンへッファー) 。パウロもまた、 「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け人れてくださたように、あなたがたも互いに相手を受け人れなさい」(ローマ15 = 7 )と勧めています。
鳥が空気を、また魚が水を必要とするように、私たち人間は受け人れられることを願っいます。そして事実、受け入れられてこそ人を受け入れる者となっていきます。どれだけ人を受け人れているかが、あなた自身どれだけ受け入れられていることを感謝しているかどうかのバロメーターとなるのであります。