今週の礼拝メッセージ
2025/6/2 今週の礼拝説教
永遠の弁護者 ヨハネによる福音書14:15-20
「あなた方は、私を愛しているならば、私の掟を守る。」(14:15) と、イエス様が語られる「私の掟」とは、13:34で語られている「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。」と言うことです。書いたり語ったりすることは容易ですが、そのように生きることはなかなか難しいことです。ただ、私たちがイエス様を愛し、「何とかイエス様に喜んでいただけるように生きたい。」と願うとき、道が開かれます。
主は弟子たちの前から見えなくなる時を前にして、心もとない弟子たちに嬉しい約束をしてくださいました。「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる」と言うのです。弟子たちにとって、第一の弁護者はイエス・キリストです(1ヨハネ2:1)。正しく導きつつ、慰め、助け、励まし、執り成し、かばって下さるお方です。同じ事を、「真理の霊」である聖霊が担って下さるという約束です。
それは、時間や空間を超えて、弟子達だけでなく私たち一人一人にもいただける恵みです。私たちはいたずらな遠慮をしないで、信仰によって大胆に慰めを受け、助けを受け、励まされ、とりなして頂きましょう。
信じないこの世の人々はこの恵を受けることができません。しかし、「あなた方はこの霊を知っている。この霊があなた方と共におり、これからも、あなた方の内にいるからである。」(14:17b)と、主ご自身が保証して下さっています。聖霊のお働きによって、あのペンテコステの時の出来事や、数々の次元を超えた奇跡的な出来事を経験するかもしれませんし、あるいは淡々と冷静に歩む信仰生活の継続かもしれません。いずれであっても、聖霊は信じる私たちにご臨在下さり、慰め、助け、励まし、とりなして下さるお方です。
2025/5/26 今週の礼拝説教
地の果てに至るまで、私の証人となる 使徒言行録1:3-11
イエス・キリストは復活された後40日にわたって、復活の体で弟子たちの前に現れ、「神の国」について話をされました。
そんな話を聞いても、弟子たちの関心は「イスラエル民族の独立による神の国の地上的な実現」についてでした。「復活されたイエス様がここにおられるのだから、それは間近に違いない、」と、胸をときめかせていました。 そんな弟子達に、イエス様は、やがて迎える「終末の御国の完成」については、ただ「父なる神様の権限の範囲内」であることを語ってたしなめます。
その上で、第二の召命と言ってもよい大切な使命を語るのです。それは、エルサレムに留まって、「約束された聖霊の圧倒的な降臨を待つように」と言うものでした。
バプテスマのヨハネはメシアを迎えるための悔い改めを表すものとしての洗礼を授けていました。今やイエス様の前の弟子たちには、聖霊によってバプテスマを授けられる! と言うのです。それは、主の十字架の贖いによる救いをエルサレムだけでなく全世界に伝えるためです。まるでスポンジが水に浸されて水がしたたり落ちるように圧倒的に聖霊に満たされる・・・と言う約束です。
その目的は、「イエス・キリストの証人となる」ためです。使徒言行録は聖霊行伝と言われるように、「使徒がどのように働いたかではなく、使徒を通して聖霊がどのように働いたか」が綴られています。ペトロやヨハネやヤコブやパウロなどそれぞれの個性や賜物が生かされて、聖霊に導かれ、主が証しされ、福音が宣べ伝えられました。
私たちキリスト者はその福音を信じて「父と子と聖霊の名によって洗礼を受け」聖霊の内住を戴いている者です。なお、新たに豊かに聖霊の満たしを求め、良き主の証人として用いられて行きましょう。
2025/5/20 今週の礼拝説教
わたしはあなたを決して忘れない イザヤ書49:14-16
第二イザヤの預言は、南ユダの民がバビロニアに捕囚となり、苦難の日々が何年も経過した只中で語られたものです。ひたすら忍従の生活の中で、希望と解放の御言葉が語られました。アッシリアによる北イスラエルの捕囚も、南ユダのバビロン捕囚も、一般の歴史の見方では「大国が小国を飲み込んだ」にすぎませんが、聖書の見方は、「神が選び、契約の恵みに入れられた民がその恵に背いて裁きを受けた出来事」です。だから捕囚の民は「主は私を見捨てられた。忘れられた。」と嘆くのです。
ところが、主なる神は「そうだ、終わった」と言わずに、「自分の産んだ子を忘れ、憐れまない母がいたとしても、私があなたたちを忘れることは決してない。」というのです。聖書には飢えの果てに自分の子を食べる話さえ出てきます。神様は、罪は罪として裁きながら、なお、その只中で、「あなたたちを忘れない、憐れむ」とおっしゃるのです。実際にバビロニアを破ったペルシャのクロス王によって、BC538年ユダの民は故郷への帰還を赦され、神殿を建設し、新しく再出発を赦されました。
さらにそれで終わりでなく、500年ほど後には、全人類を対象にした「主なる神のみ旨に従いきれない人間」に対して、「あなたたちを忘れない、憐れむ」とおっしゃって、その罪の贖いのためにご自身の独り子をこの世に送ってくださいました。私たちはこのイエス・キリストの福音の恵みを信じて、今日、キリスト者として救いに入れられ、永遠の命を頂いています。
イスラエルの民がエジプトを脱出して終点でなかったように、私達も洗礼が終点ではありません。新しい出エジプトとして、聖霊の導きの中、日々、主と共に歩ませて頂きたいと思います。この「愛されている喜び」の中、教会の兄弟姉妹同士励まし合いながら、霊の命に生かされて行きましょう。
2025/5/12 今週の礼拝説教
主イエスは父に至る道 ヨハネ福音書14:1-14
最後の晩餐の中で、主から「これから、弟子たちがついてこられないところへ行く」と聞いて、弟子たちはおろおろしてしまいます。
そんな弟子たちに「あなた方のために場所を用意しに行くのだ。その後戻ってきて、あなた方を私のもとに迎える」と約束されます。それは、終末の再臨と理解できますが、同時に「主が十字架・復活・昇天を通り、聖霊の降臨を経て」霊的に私達と共にいて下さる・・との約束でもあります。だから、「心騒がせるな」とおっしゃるのです。
それでも「わかりません」と言うトマスに、「わたしは道であり、真理であり、命である」と語ります。道について教える人でなく、真理について教える人でなく命について教える人でなく、主ご自身が「道であり真理であり命だ」というのです。それゆえに、このイエス様を信じ従う人は、「父なる神様を知る、いやすでに父を見ている」と言い切ります。本来父なる神様と人間は本質的に隔絶された存在で、「見ただけで死ぬ」と教えられてきました。その神様をすでに見ている・・と言うのです。フィリポは、もどかしくなって「それではその神様をここで見せてほしい」と言うと、「私を見たものは、父を見たのだ。・・わたしの内におられる父が、私を通して語り、わざを行っておられるのだ。」と語ります。
それは霊的な「相互内住」の現実です。この霊的現実は、父なる神と子なるキリストにとどまらず、やがて、弟子たちを始め福音を信じる者達にまで敷衍されてゆきます。聖霊の恵みを通して、この祝福に生かされた弟子たちの働きとこの主の約束の実現を使徒言行録の中に、あらわに見ることができます。「私の名によって願うことは何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。」(14:13) 期待を込めて祈りましょう。
2025/5/5 今週の礼拝説教
信じ、宣べ伝える マルコによる福音書16:9-18
マルコ福音書の締めくくりとして記されているこの部分は、弟子達だけでなく私達にも、主の復活を固く信じるように、そして信じた福音を全世界に伝えるようにとの祝福です。
復活された主イエスはマグダラのマリアに現れ、さらに違ったお姿でしたがエマォ途上の二人の弟子たちに現れました。彼らは喜び勇んで、エルサレムの泣き悲しんでいる弟子たちの所へこの喜びを知らせました。ところが彼らはいずれの時もかたくなに信じませんでした。「信じない」扉を閉めてかたくなに泣いているのです。「この世の物差し、常識的判断、にがんじがらめになっている自分たち」に気が付かないのです。人間はしばしば、「この自分がそう思うのだから間違いない」と頑迷になるのです。
ところが、そんな弟子たちの所へ主イエスが現れ、「その不信仰とかたくなな心」を御咎めになりました。主は寛大に「信じられなくても仕方がない」とかおっしゃいませんでした。それは「一番大切なことをあいまいにしてはならない」からです。「不信仰とかたくなな心」は、「神様からの愛」をシャットアウトしてしまうからです。
主の前に喜ぶ弟子たちに対して、「全世界に行って、全ての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と使命が与えられます。信じて洗礼を受け、永遠の命に生かされるか、拒否して、終末の裁きに「罪有り」と宣告を受けるかの分かれ目です。弟子たちも私たちもひたすら宣べ伝えるようにと、促されています。さらに、主ご自身がこの福音が確かであることを、様々な奇跡を通して、証明して下さると約束して下さいます。この約束は使徒言行録の中に多く記されており、現代も、時にこの主のお働きを聞くことができます。私達もこのお方に支えられ、永遠の福音を伝えさせて頂きましょう。
2025/4/29 今週の礼拝説教
どれほど愛されていることか Ⅰヨハネの手紙3:1-3
わたしたちは唯一の神に背くものとして、永遠の死を刈り取る存在でした。そんな私たち人間を愛し、哀れみ、ご自身の御子を身代わりに死なせて下さいました。この一方的な恵みを感謝して信じる者を神の子とし、永遠の命を下さるのです。私たちキリスト者はこの「ありえない愛」に生かされています。
このヨハネの手紙が書かれた背景は、一代目のキリスト者たちが次々天に召される中、教会に巧妙に入り込んできた異端の攻撃にさらされた人々を守る為です。「まことの人となってこの世に来られた神の御子イエス・キリストを否定し、そこから神への不従順、兄弟愛の欠如」等がはびこってきたのです。私達の信仰は、この世での気休めではありません。真理に立ってこその救いです。今の時代の教会も、この真理を決してゆるがせにできません。
そんな中、み言葉は、改めて「父なる神様から戴いた計り知れない愛に立って、信仰生活を送るように」と促すのです。
自分の救いのために指一本動かさずに、「ただ信じることで神の子とされた」私たちは、頭ではわかっても、支払われたその愛の重さや深さ痛みがなかなか身に染みていないのではないでしょうか。
少しでも深く「神の子」として戴いた愛の重さが解るために、「私と言う軸」をどこに置くか意識してみたいと思います。「私がどう思うか」ではなくて、「私を愛している父なる神様の目・親の目」に軸を置いて、み言葉に聞いてみたいと思います。 ある人は「イエスの愛によって私達が神の子にされたということが、私たちの生活の基準となり原動力となり、震源地になって行くことです。その愛の振動の上に載って初めて、言葉だけで愛するのでなく、行いと真実をもって愛する人になります。」と語ります。
2025/4/22 今週の礼拝説教
恐ろしかったからである マルコ福音書16:1-8
主の十字架上での死と埋葬を見届けた女弟子たちは、安息日が終わるのを待ちかねて香料を買い求め、日曜日の早朝、墓に走りました。主イエスへの一途な愛からでした。しかしそれはご遺体への奉仕であり、かつて主が語られた「苦しみを受けてからよみがえる」とのみ言葉への信頼ではありませんでした。そんな彼女たちを待っていたのは天使の語る「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と言う知らせと空の墓でした。
本来なら飛び上がるほどうれしい知らせですが、この全く次元の異なる神の御業の現実にふれ、ただ恐れおののいたのでした。元々のマルコ福音書はこの「恐ろしかったからである」で終わっています。この終わり方に諸説ありますが、少なくともマルコは「恐ろしさ」をよくよく知っている人です。イエス様の捕らわれた時も服を残して逃げたことを自ら書き記しています。又使徒言行録には、バルナバとパウロと共に伝道旅行に行ったにもかかわらず、キプロスからエルサレムへ逃げ帰ったことが記されています。異次元の「主の復活の現実」に向かい合った婦人たちの「恐ろしさ」に誰よりも共感できました。しかしマルコはその後、主の御力によってマルコらしく成長し、主に仕えて行きます。ペトロの通訳として働き、その後最初の福音書「マルコによる福音書」を書き表しました。さらに、パウロを支える一人として、幾度か書簡に名前が出てきます。
この婦人たちも、当初こそ恐ろしさで手も足も出ない状態でしたが、それで終わりませんでした。「他の弟子たちに伝えなさい」と天使から委託された使命を果たします。
私達もまた、主から召し出された恐れおののくキリスト者の群れに他なりません。こんな私たちの自力の頑張りではなく、主の愛と憐みが成長させてくださり、主に仕えさせてくださいます。
2025/4/15 今週の礼拝説教
あなたは今日私と一緒に楽園にいる ルカ福音書23:32-43
「十字架刑」とは、ただ犯罪者の命を奪うだけでなく、できるだけ長い時間苦しませて見せしめにする残酷な刑です。
二人の犯罪人の間に主イエスの十字架が立てられ、苦しみの中にある主イエスに、「メシアならその十字架から降りてきて、自分を救え!!」と、祭司長や群衆が叫びます。主イエスは降りようと思えば降りることはできました。しかし、それでは、人間の罪の贖いのためにこの世に来られた目的が達せられません。主は「降りられないのではなくて、降りないのです。」
さらに犯罪人の一人も「「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」とののしります。それはメシアに対する謙遜な懇願ではなく、身勝手な挑発であり命令です。もう一人の犯罪人は、苦しみの中からこれをたしなめました。この人は人生の最後になって自分の罪に気が付きました。何より人に対してだけでなく、神に対する罪だと気が付いたのです。さらに、主イエスが「無罪だ」と確信が持てました。又主が、自分を十字架につけた人々に対し執り成しの祈りをするお言葉・姿勢に心打たれ、「この方こそ紛れもないメシアだ」と確信を持つことができた故に、この肉体の死の後のことを本気で期待を込めて願うことができたのです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出して下さい。」これは明白な信仰告白です。
この人の願いに対して主は「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と、受け入れてくださいました。旧約の偽典の中に「メシヤはパラダイスの門を開き、アダムに対する恐れおののきの剣を除き、聖徒たちに命の木からとって食べさせ、彼らに清めの霊を下す。」との言葉があるそうです。まるで福音の恵みそのものです。
主の約束はこの犯罪人だけでなく私達にも語られている約束です。復活の体は終末に約束されていますが、それ以前の肉体の死の後、主と共に楽園にいることができます。パウロはこのように語ります。「(生きるか、死ぬか)板挟みの状態です。一方ではこの世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」(フィリピ1:23)
2025/4/8 今週の礼拝説教
ピラトは不思議に思った マルコ福音書15:1-15
ドイツのオーバーアマガウと言う地で、10年に一度キリストの受難劇が行われ、世界中から多くの人々が訪れます。その感動を味わってみたいと思うと同時に、聖書の中で主の受難の個所を読むときに、私達は観客でなく、その只中に立たされている当事者であることを思わされます。
さて、み言葉にじっくり耳を傾けると、主イエスが裁かれているその場の「祭司長・律法学者」「ピラト」「民衆」「バラバ」・・・の全てがそれぞれの「わが思い」を押し通し、本来のまことの王なるメシアを十字架に追いやろうとしていることが明白です。彼らこそ後の日に本当の審判者の前に立たされ「罪有り」との宣告を受けなければなりません。
そんな中で、ピラトは祭司長たちの告訴状をもとに「お前がユダヤ人の王なのか」と問います。主イエスは、この世的な意味での「王」とは言っていません。しかし、主イエスは神から遣わされた紛れもない救い主・メシア「王」です。主は「そうあなたが言っている」と答えました。そして、それ以後、何を言われても沈黙を貫かれました。その状況を見ていたピラトは不思議に思ったのです。このまま行けば十字架につけられて死ななければならない、そのために多くの人々が夢中になって告発しているのに、この人はなぜ必死になって弁明しないのか?不思議でした。
しかし、主の贖いの恵みに預かり救いに入れられた私達にはこのイエスさまの沈黙がわかります。「苦役を課せられてかがみこみ彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる子羊のように・・・・彼は口を開かなかった。」(イザヤ53:7)この苦難の僕の預言が今実現しているのだということが解るのです。私達こそ、「主よ、あなたこそ私の真の王です。」と、告白し、心を込めて従って行きたいと思います。
2025/3/31 今週の礼拝説教
主イエスについて行く マルコによる福音書14:43-52
イエス様のゲッセマネの祈りが終わっていくらもしないうちに、イスカリオテのユダが大勢の群衆と共に現れます。あらかじめ決めていた合図で、どの人がイエス様かを教えて、捕縛に至ります。悪魔的な計画は成功したように見えますが、実は深いご計画を全うされたのは神様でした。
とっさの出来事の中で、ペトロは大祭司の手下に切りかかりました。それは勇敢な行為に見えますが、本当の勇気はむしろこの状況で主に寄り添い受け入れることです。結局弟子たちは「イエスを見捨てて逃げてしまった」のでした。いざとなった時あらわになった弟子たちのもろさは、又私たちの弱さでもあります。聖書はさらに一人の若者の弱さを記しています。おそらく、ヨハネ・マルコであろうと思われますが、エルサレムでの主の集いの場を提供していた人の息子で、のちのペトロの通訳者です。彼もイエス様の事が気になってついて行きましたが、人に見とがめられて、相手に服を残したまま裸で逃げた‥。と書いています。自分のふがいなさを書き記さなくても済むのに、書かずにおれなかった思いに私たちも共感できます。
聖書の預言のように、ユダは裏切り、弟子たちは主イエスを捨て、我が身大事で逃げ去りました。なんと残念な結末でしょう。そしてそれは私たちのふがいない姿でもあります。
しかし、聖書のみ言葉はそれで終わりではありません。イザヤ53章の苦難の僕の預言が実現し、ヨナ書の復活の預言が成就いたします。「この世の物差しとわが身大事」で固まっていた弟子たちは、自らの努力でなく、復活の主に出会い、聖霊の満たしを通して変えられて行きました。この聖書の証言がありますから、私たちには希望があります。主に招かれ救われた私たちは、安心し、信頼して、御霊の導きの中で変えられて行きたいと思います。
2025/3/25 今週の礼拝説教
天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない ルカ福音書21:25-36
これまでの歴史もそうであったように、今日の私たちも世界の戦争や紛争に振り回され、多発する地震に苦しめられ、不安とおそれの中にあり、様々な天変地異におののいています。聖書はさらに宇宙的次元の変化や災害が加わる」と語ります。私たちキリスト者はどのように生きたらよいのでしょうか。みて見ぬふりをしたらよいのでしょうか。
主イエス様は「いちぢく」の変化を例えにして、「いろいろな兆しを見極めて、終末・再臨の準備をしなさい」と促します。聖書を通して予告されている「その時」の備えをしなさいというのです。
「終末」と聞くと、全ての終わりの時・・と思えて震えおののきますが、聖書が予告する終末はただ終わってしまうのではなくて、新しくなるのです。万物の更新、回復です。激動の時を経て、主イエス・キリストが審判者として到来され、本来的な回復が成されるのです。ヘブライ人への手紙12:27では「揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、作られたものとして取り除かれることを示しています。」と語られています。私達も本来は罪の故に「有罪」と裁かれ、取り除かれるはずのものでした。しかし、審判者ご自身が私たちの罪を贖って下さって、ただ「信仰」の故に無罪と宣言してくださって「揺り動かされないもの」としていただいたのです。
主は、何時なのか解らないその時のために備えなさいと言います。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。そのすべての禍から逃れて、人の子の前に立つことができるように、何時も信仰の目を覚まして祈りなさい。」と。十字架にお架かりになるためにエルサレムへ真直ぐ進みながら、弟子たちに勧め、又私たちに勧めて下さいます。
2025/3/17 今週の礼拝説教
探し出された羊 ルカによる福音書 15:1-7
十字架にお架かりになるためにエルサレムへ進み行かれる途上の事でした。
主イエスを迎えて開かれた集いに、徴税人や罪びとたちも受け入れられ食事を共にしていました。これに対して、律法学者やファリサイ派の人々は不平を言いました。
この場面で主イエスは三つのたとえ話を語りました。その一つがいなくなった羊の話です。譬えの意図は共通していて、神様は「羊であっても銀貨であっても息子であっても見失われてしまうことに耐えられない」ということです。それは「私たち人間が神様の下から離れ去ってしまうことに耐えられない」ということです。 「仕方がない」と諦めるのでなく、自ら、時間も労苦も危険も顧みずに、どんなことをしても探し出すのです。それが私たちへの神様の愛です。合理的に考える人にとっては理不尽に思える神様からの愛です。この愛に基づいて私たちはそれぞれ探し出されて確かな救いに入れられました。 その後も、ことあるごとに迷い離れる私たちを、探し出し連れ戻して下さり続けています。 この途方もない愛は、私たちの罪の贖いのために神の子が十字架上で死んで下さる・・・福音の恵みに重なって余りあるものです。この神様の愛を人間の手で絵にかいたり文章にしたりできません。 けれども、見失った羊や銀貨や息子を発見した時の神様の喜びを通して感じ取ることができます。嬉しくて、嬉しくて、なりふり構わず誰にでも「一緒に喜んでください。いなくなった羊が見つかったのです。」と呼びかけずにおれないほど羊飼いは嬉しいのです。御国の喜びも同様です。
私たち羊がどう感じるかはそれぞれですが、この羊飼いの愛は確かなのです。
「自分たちは悔い改める必要はない」と思っていたファリサイ派の人々や律法学者達は、本来の自分たちの救い主を十字架に追いやるために画策し、結果として、主イエスは全ての人の為の贖いの死を全うして下さいました。
2025/3/10 今週の礼拝説教
自分を大切にする ルカ福音書9:21-27
人間は、自己愛の塊ですが、み言葉は「それが本当に自分を大切にすることなのか」と問いかけます。今日、世界の少数の国の独裁者たちの言動を見ていると、「究極の栄光を手にして、自分たちさえよければいい」と思っているように見えます。しかし、実はそういう一部の人たちだけでなく、時代を超えてすべての人が同様に肉の自分にしがみついているのです。
ソドムで天使はロトに、「自分の命のために逃げなさい」と促し、預言者アモスは「主を求めよ、そして生きよ」と北イスラエルに語ります。主イエスご自身が「どんなどん欲にも注意を払い、用心しなさい。‥‥人の命は財産によってどうすることもできないからである。」「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならないものはこの通りだ。」と警告します。――そういう人間の中から神様は私たちを導き出し、救いに入れて下さいました。この世の栄光の限界に気づかせ、主イエスの贖いなしに生きられないことに気づかせて下さいました。
この私たちに主は「弟子としてついて来るように」招いて下さいます。弟子の自覚・覚悟です。弟子はイエス様について行きたいと思うのです。その為には「身に沁みついた肉の自分第一の発想から切り替えて、私を第一としてついてきなさい。」「劇的なひと時でなく、日々、こつこつと私を第一としてついてきなさい。」と勧めます。肉の自分中心の生き方は自分を大切にしているようで結果的には霊の命を失います。
「あなた方には、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。(フィリピ1:29)
日々、自分の十字架を背負って主に従うことは、恵みの賜物です。
2025/3/4 今週の礼拝説教
贖いのわざ ローマの信徒への手紙3:21-26
先週、エレミヤ書31章で、「新しい契約を結ぶ」という預言が語られたことを読みました。それは「罪が赦される」と言う驚くべき内容です。「何時」なのか「どのようにして」かは、わかりません。
そしてついに、600年ほど経過した時、その預言は神の独り子主イエスキリストを通して実現いたしました。
そもそも罰せられるべき「罪」の自覚や認識がなければ「赦される」と言う恵みの値打ちがわかりません。 「神様のみ旨を踏みにじる」罪の重さを知るから、「裁かれずに赦される」恵みのありがたさが身にしみるのです。 しかも、罪を罪として裁く神様であってこそ、義しい真実の神様です。対象が大切だからと見てみぬふりをするのは真の神ではありません。だから、本来大切な北イスラエル王国も南ユダ王国もアッシリアやバビロニアを用いて滅ぼしました。
しかし、真実の神様はご自身の義しさを捨てずに、イスラエルの民だけでなく全人類の罪を赦し救う道を備えてくださいました。「新しい契約」はそんな途方もない契約です。我々の身代わりを立て、その罪の裁きを受けされるという「贖い」です。もともとはお金を払って奴隷を自由にすることです。この罪の贖いは誰かが他の人の代わりに・・と言うわけに行きません。それは、罪のある人が死んでも、その人自身の罪の裁きになっても他の人を、贖うことはできないからです。神様はそのために罪のないご自身の独り子をこの世に送り、私たちの贖いとして、十字架にかけて殺すという、途方もない手段をとって下さいました。主イエスはそのみ旨を受け止め、従順に死について下さいました。私達はそのありえない愛を感謝して受け、心から信じ、救いに入れられました。
2025/2/25 今週の礼拝説教
新しい契約 エレミヤ書 31:31-34
契約と言う言葉は、旧約聖書だけで280回、その中で「新しい契約」と言う言葉はこの個所だけです。様々な契約がありますが、「シナイ契約」は、エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民に、神様が、圧倒的な愛と憐みを注ぎ、奇跡を伴って助け出して下さった出来事を前提にして結ばれた、十戒をはじめとする律法です。これを守ることがイスラエルの民にとって祝福になる・・・・そういう契約を結びました。しかし、イスラエルの民は荒れ野でもカナンの地に入っても王国時代になっても、波のようにこの契約を破りました。その結果として、北も南もアッシリア、バビロニアに打ち砕かれ滅びました。エレミヤは南ユダ王国の最後を見届けた預言者です。
このような中で、エレミヤは神様から示され「新しい契約」について預言をしました。その中心は「私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を止めることはない」と言うものです。この預言から600年ほど後、神の御子主イエスがメシアとしてこの世界に来られ、預言は成就いたしました。主がわたしたちの罪を背負って十字架について死んでくださり、三日目に復活され、根本的に罪と死を打ち破って下さいました。私たちは聖餐式のたびに、「この杯は、私の血によって立てられる新しい契約である。…」との主の言葉を聞きます。主イエスの到来以来2000年後の私達もまた、この預言の成就の証言者です。
かつて外側に置かれた律法は、今や主イエスの愛と赦しの福音の恵みの中に溶け込んで、「私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。」とのみ言葉が成就いたします。この「新しい契約」が、今日、イスラエルの民をはじめ、世界中の民に結ばれてほしいものです。
2025/2/18 今週の礼拝説教
恐れることはない ルカによる福音書5:1-11
シモンの姑の熱病がイエス様によって癒された後の出来事です。ゲネサレト湖畔に立つイエス様の下に大勢の人が「神のことば」を聞くために集まりました。主は夜通し働いても収穫がなく疲労困憊の中、網の繕いをしていたシモンに「船を少しだけ沖へ漕ぎ出してほしい」と頼みました。シモンは断りませんでしたが、岸にひしめく人々のように、み言葉への飢え渇きはなかったかもしれません。しかし、マイクもなしで、大声で語られる、心をえぐるようなまた、これまで経験したことのない熱い愛を注いで語られる主のお言葉が一番よく聞こえたのは船に乗っているシモン・ペトロでした。
このペトロにイエス様は「沖に漕ぎ出して網を下ろし、漁をしなさい。」と、チャレンジをされました。今、主の御言葉を聞いたペトロは、漁の専門家としては不本意ですが、それでも、「しかし、お言葉ですから」と従いました。
その結果、想像もしなかった大漁となりました。このことを通して、ペトロは「主よ」と叫んでいます。それは紛れもまくこの方が「聖なる神の子メシアだ」と分かったからです。同時に自分自身の深い罪があからさまにされて、聖なるお方のそばに罪びとの私が存在することなどできない。だから離れて下さい」と叫んだのです。1イザヤが神殿で、聖なる霊的な経験をした時、「災いだ。私は滅ぼされる。私は汚れた唇のもの。汚れた唇の民の中に住むもの」と叫んだ思いと重なります。
「離れて下さい」と言うペトロに、「恐れることはない」と主は言い切ります。それは、ペトロの罪をもご自身の贖いの御業によって引き受けて下さる保障があるからです。主イエスを信じ従って行く限りペトロも私達も、自分の罪で死ななくてよいのです。この恵を携えて、「人間をとる漁師になるように」と主は私達を招きます。それは「主に在って、人を生き返らせる」仕事です。
2025/2/4 今週の礼拝説教
主の御言葉をどう聞くのか ルカ福音書4:16-30
主イエスは故郷ナザレに戻っていつものように安息日の礼拝を守るために会堂に入りました。ラビとしてイエス様は預言者の書を読み、説教を期待されます。しかし、その時の主イエスのお言葉は画期的なものでした。イザヤ書61章のみ言葉を読み、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した。」と語られたのです。 それはとりもなおさず、「私がこのみ言葉の成就者メシアである」との自己証言でした。 第三イザヤはメシアの到来を、「貧しい人が福音を聞き、拘束され圧迫されている人が解放され、目の見えない人が見えるようになる。それはまるであの50年に一度のヨベルの年・・・借金も棒引き、土地も本来の持ち主に戻り、奴隷も解放される・・・の恵みのよう」だ。と表現しました。それは紛れもなく、すでに主が開始しておられる公生涯の恵みそのものでした。
何より、私たちも主イエスを信じて、この恵に生かされていますから、心から喜びたいと思います。 ナザレの人々も最初は心から喜びました。しかし、喜びながら「この人はヨセフの子ではないか」と言う言葉が口から出てきました。喜びと感謝のメシアの姿に、自分たちのよく見知っているヨセフの子イエスの姿がかぶさり、やがてメシア・イエスの姿を覆ってしまいました。いつの時代でもすぐに広がる「私が思うには、私達が思うには‥」と言う傲慢で尊大な人間の姿です。この傲慢は、メシア・イエスを崖から突き落として殺そうとするところにまで至ります。
わたしたちはこのナザレの人々を「他山の石」としたいと思います。
主のお言葉通り頂いた恵みの豊かさを味わいながら、主のみ言葉の確かさを大胆に証しする器とさせていただきましょう。
2025/1/27 今週の礼拝説教
悲しみの人から喜びの人へ 使徒言行録 8:26-40
フィリポは、初代教会の中で「執事」として選ばれた一人です。同じように執事として選ばれたステファノは、信仰の故に迫害を受け殉教の死を遂げました。そこから始まったキリスト者への迫害によって、多くのキリスト者が、福音を伝えながら各地へ散らされて行きました。
今日の個所はそんなフィリポの一コマです。天使に命じられ、エルサレムからガザへ下る道へ行くと、イザヤ書53章を読みながら馬車で走っているエチオビアの宦官に出会いました。それは紛れもなく聖霊が備えた「この宦官の救い」のための出会いでした。
宦官は様々な理由によって男性としての生殖機能を失った人で、時に高い勤めに用いられました。この人もエチオビアの女王の全財産を管理していた人でした。地位や財産を得ても人の蔑みや孤独、虚しさを経験するものです。多くの人はさらなる財産や権力で補おうとしますが、この人はイスラエルの神ヤハウェを求めました。それでエルサレムまで礼拝に行き、イザヤ書を手に入れて帰り道読んでいたのです。 しかし、旧約の主の律法では、異邦人が差別されるだけでなく宦官はなおさら一人前の礼拝者として受け入れられませんでした。しかしこの人は、ステバチにならずに、自分に赦されている範囲で、この真理の神様につながれたいと思ったのです。
聖霊はこの人にフィリボを遣わし「苦難のしもべ」のイザヤ53章から説き起こして、イエスキリストの福音を伝えたのです。異邦人も宦官も差別なく主の贖いを受けて救われる喜びの解放であり、復活と昇天による罪と死に対する勝利です。宦官は信じ、信仰の告白をして洗礼を受けました。フィリボは直後に視界から消えましたが、彼は溢れ湧き上がってくる喜びを噛みしめながら、故郷に帰りました。
2025/1/20 今週の礼拝説教
主の前にへりくだる 列王記下 22:14-20
南ユダ王国のヨシア王は、「信仰の王ヒゼキヤ」のひ孫ですが、その後のマナセもアモンも60年近い年月、ヤハウェ信仰を踏みにじり悪行の限りを尽くしてきました。8歳で王となったヨシアは、「主の目に適うダビデの道からそれない」信仰の人でした。このヨシアの18年目に、「律法の書」(「申命記」の一部かと思われる)が発見され、いわゆる「ヨシアの宗教改革」が始まりました。さらにその律法の書には「南ユダの罪の故にエルサレムとその住民は荒れ果て呪われたものとなる」と記されておりました。これらのことを女預言者フルダに問うたところ、「ヨシアが心を痛め主の前にへりくだり、衣を裂いて私の前で泣いたので、あなたの願いを聞き入れた。」と伝えます。
しかし結果的には、ヨシアは13年後にエジプトに敗れて戦死し、30年たたないうちに南ユダはバビロニアに滅ぼされて壊滅状態となりました。「願いを聞き入れる」と言われた神様の憐れみは、「ヨシアが南ユダの滅亡を経験しないで済んだ」という恵みにとどまりました。人間的な思いでは物足りなさを覚えますが、これこそ、「罪を罪として裁く義なる神様の姿」です。それゆえにこそ、旧約時代の限界でもあります。
私達も本来は同様に裁かれ滅ぼされて当然の者でした。その当然を逆転して下さったのが、「主イエス・キリストの十字架の贖いの恵み」です。「どこまでも正義を全うする神」と言う看板を降ろさないまま私達を愛し赦して下さった恵みです。だからこそ、私たちは三位一体の神様に対し、真実に誠実に謙らせて頂きたいと思います。つい、我が思い」を優先したい私達ですが、あの主イエスの母マリアのように、「お言葉通りこの身になりますように」と謙らせて頂きたいと思います。
2025/1/14 今週の礼拝説教
誘惑を受ける ルカ福音書 4:1-13
今日の聖書の個所には、主イエスが悪魔から受けられた三種類の誘惑が記されています。「神の子ならば、その権能を生かして自分の欲を満たしたらどうだ。」と、聖書のみ言葉を逆手にとって誘うのです。主イエスはこの誘惑に見事に勝利され、救い主としての使命を果たして下さいました。それで私たちは今日、救いの恵みに入れられています。
さて、4:1では「主が”霊”に導かれて悪魔から誘惑を受けられた」と、記されています。「誘惑」も「訓練」も同じ言葉が使われますから、神様は聖霊を通して、悪魔を手先として、主を訓練された・・と読むこともできるかもしれません。「・・主が導かれたこの40年の荒れ野の生活を思い起こしなさい。主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた」(申命記8:2)を思い起こします。
悪魔は手先とはいえ、全身全霊で誘惑し、「ああ、もう終わりだ、神様との絆は切れた。」と思い込ませ、そのことを告発します。主イエスはこの誘惑に勝利してくださいました。そして、悪魔は私たちに、神様から離れるようにと、死に物狂いで攻撃し誘惑します。
主に習って、み言葉に信頼して戦いたいと思います。
それでも私たちはあまりにも弱く、自分の利得、誉、・・に、がんじがらめになります。そういう時こそ、自力に頼るのでなく、「私のために命を捨てて下さった方が、聖霊を通して、今ご臨在下さる」ことによりかかり、逃れさせて戴きましょう。又、失敗しても、誠実に悔い改め、十字架上に命を捨て、私たちの罪の贖いを成し遂げて下さった主の恵みに与らせて頂きましょう。
私たちはこの誘惑・試練を通して育てられています。
2025/1/6 今週の礼拝説教
あなたの救いを見た ルカ福音書 2:22-40
今日の聖書の個所から、この新しい年、謙った歩みをさせていただきたい。聖霊に導かれて歩ませて頂きたい。そして、イエス・キリストの福音が多くの人に伝わる器とされたいと願います。
ヨセフとマリアはイエス様が神の子であることを告げられていましたが、イエス様がお生まれになった後、律法の規定通りにイエス様を神様にお献げするため生贄の鳩などを携えて神殿に行きました。それは救い主イエス様が全き神でありながら、この地上で完全な人の子として歩まれた第一歩、究極の謙りです。罪びとを救うために、全ての面で人間と同じ立ち位置に立って下さいました。愛ゆえの謙りです。
この時、シメオンとアンナと言う二人の老預言者と出会います。聖霊に満たされ、委ね、従う歩みをつづけ、ついに、聖霊のお告げ通り、シメオンは幼子イエス様と出会いました。この時、シメオンは到来した自らの死を、聖霊のお告げの成就として喜び「私はこの目であなたの救いを見たからです。」と言うことができました。
このシメオンの、聖霊に導かれ委ねた信仰の歩みは、私たちキリスト者にとって、決して縁遠い話ではありません。主イエス様の贖いによって、復活と昇天、圧倒的な聖霊の降臨によって、一人一人が聖霊の宮とされているからです。その恵をかみしめつつ、聖霊のお導きに心開かれて歩ませて頂きたいものです。インマヌエルの主を覚えつつ、私たちも「あなたの救いを見た」と証しさせて頂きたいものです。
アンナは、「その時、近づいてきて神を讃美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子の事を話した。」(2:38)と、記されています。シメオンもアンナも、私たちのかけがえのないお手本です。
2025/1/1 今週の礼拝説教
さあ、ベツレヘムへ行こう ルカ福音書2:15-21
ベツレヘムから少し離れた野原で、黙々と仕事をしていた夜、天使が羊飼いたちに現れました。「あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。」と告げたのです。さらに天の軍勢が現れて、圧倒的な力で讃美しました。
その後、この羊飼いたちはどうしたのでしょうか。讃美や光が消えて闇の中で我に返った時、「あまり切ない現実の中で、共にひと時の幻想を経験したのでは?」「とても素晴らしかったんだ」と、家族に報告しておしまい。と言うこともあり得ないことではありません。しかし、この羊飼いたちは、「話し合って」、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせて下さったその出来事を見てこようではないか」と、決断しました。
羊飼いたちは、「あの出来事の主体者は、紛れもなく神様が遣わして下さった天使で、私たちのために伝えられた、かけがえのない嬉しい知らせだ」と、確認したのです。それは「共に、信じた」と言うことです。「急いでいって」とか「探し当てた」という言葉で熱い思いが読み取れます。
伝えられた福音に、忠実に答えた結果、羊飼いたちは変えられました。一つは、「伝えられたこと」を他の人に「伝える人」にされました。さらに、「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので、神をあがめ、讃美しながら帰って行った。」(2:20)とあるように、神様の素晴らしさに圧倒されて、神をあがめ讃美しないでおれない人たちに変えられました。ある人は「羊飼いが天使になった」と表現しています。
わたし達も、神様が選んで、善き知らせを伝えられた羊飼いに重ねられます。「伝えられた福音」を伝え、讃美の器として用いられます。
2024/12/26 今週の礼拝説教
大きな喜び ルカ福音書2:8-14
クリスマスおめでとうございます。
クリスマスの本当の意味は「キリストを礼拝する」と言う意味です。世界中がその喜びを味わえたらいいのですが、戦いに明け暮れる地上はなかなかそのようにはなりません。その戦争・紛争の中で、多くの人々が殺され、呻き苦しんでいます。戦いの渦に巻き込まれていない地域の人たちは平安かと言うと、日本をはじめ様々な国の人々が気候変動や生活手段の急激な変化について行けなくて恐れおののいています。
世界で一番初めに救い主の誕生を知らされた羊飼いたちも、命の脅かしはなくても、社会的に最底辺に位置付けられ「地の民」として、日々蔑みの中に生きていた人たちです。神様は長い間待ち望まれてきた救い主の誕生の知らせのために、この「羊飼い」を選びました。ちょうど、イエス様が取税人や身持ちの悪い婦人を選んでくださったように。
神様は、人間の罪が大きいから、あるいは小さいから、機械的に選ぶわけではありません。神様が選んでくださるのは、うめき、苦しみ、恐れを知っている人です。そしてその苦しみを自己解決しようとしないで、神様をよく知らなくても、知らないままに見上げようとする人です。あの晩、神様が選んだのはそういう羊飼いたちでした。
天使は「恐れなくていい」と語り、長い間待ち望まれてきた救い主がお生まれになった!!と伝えたのです。その方は、人間にとって何にも替えられない大きな喜びをもたらすお方です。この世界で、自分たちの思い通りに事が運ぶ喜びではなく、主の十字架によって罪赦されて救いに入れられ、永遠の命を戴ける大きな喜びです。
羊飼いのように、私たちも、ただ神様の選びによってこの救いに入れられました。素直な新しい思いで、感謝したいと思います。
2024/12/17 今週の礼拝説教
生きるようになるため Ⅰヨハネの手紙4:7-12
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(4:9)に耳を傾けてみたいと思います。
「存在している」ことと「生きていること」とは違います。聖書は、この世の範囲内での満足や充実を手にしても、それは只存在しているだけで、罪赦されてキリストと共に生きることこそが、まことの命に「生きている」ことだというのです。人間的な満足・称賛・・を手にしなくても、罪赦されて永遠の命を戴き、主と共に歩ませていただく命です。
私たち人間は、創造主が愛を持って創り生み出して下さったのに、神に背き侮って、人間中心の傲慢の罪の中に生きてきたものです。この世の何かに依存してもその虚しさから逃れることはできません。最後は、その自らの罪を清算するために究極の死に至るのです。
神様はこの悲惨で惨めな人間を憐れんで下さって、この罪の清算のためにご自身の独り子をこの世に送って下さり、「私たちの罪の身代わりとなって十字架上に死ぬ」と言う手立てをとって下さいました。
この神様の側の一方的な自己犠牲の恵みを感謝して信じる者が、「ただ存在している者」から、「本当の命に生きるようにされた者」です。
創造主に背いた罪の人間のために、ご自身の御子を犠牲にする・・・このありえない愛こそがアガペーの愛です。考えられない理不尽な愛こそが神様の愛であり、主の御降誕と十字架と復活の歴史的事実に裏打ちされた愛であります。そして、主イエスご自身が父なる神様の御思いを大切にして従順にその道を歩んで下さった愛です。
ただの「存在」から「生きるもの」にして下さった恵みです。この愛の全てがあなたに向けられています。喜んで受け取るところから善き愛の器とされます。不可能と思われていた、赦し赦され受け入れ合う「愛し合う群れ」が現実のものになって行きます。
メリークリスマス!
2024/12/10 今週の礼拝説教
神にできないことは何一つない ルカ 1:26-38
天使から乙女マリアへの受胎告知の個所です。今日は、この主の母マリアと私たちキリスト者を重ねて読んで行きたいと思います。
ヨセフと婚約し、共に暮らす日の準備していた幸せな日々のマリアの前に、突然天使が現れて、「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。」と、さらなる恵みを宣言いたします。私たちキリスト者も平凡な生活のただなかに、一方的に神様が介入して下さり、選ばれて救いの恵みに入れられました。天使でなくても教会の兄弟姉妹から「おめでとう」と喜んでもらいました。
ところで、マリアの「おめでとう」の中身は何だったでしょう。①身ごもって子供を産む②その子は神の子と呼ばれる③さらに父ダビデの王座を受け継ぐ・・・と言うものです。 しかし、マリアにとって、初めの「子供を産む」ことはとても理不尽なことでした。そのことを天使に抗弁すると、天使は「聖霊があなたに下り神の力があなたを包んで宿る命で、生まれる子は神の子と呼ばれる」と言うのです。それはイザヤ書7:14の実現です。さらに、聖霊の御業の証明として、親類で老齢のエリサベツが子供を宿して6か月になることを語ります。
そして、「神にはできないことは何一つない。」と言い切ります。
ここからマリアは変わり「私は主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように。」と答えます。それは、ただ神が与えるものを受け、命じることを行う。この身を差し出し、委ね、従おうとの決心でした。同時に、「そんなはずはない、家族や世間は何というか」を脇に置いた瞬間でした。また、天使からの「おめでとう」と、「恵みを頂いた」と言う言葉が、「本当だ」と解った信仰の喜び・確信です。
救われた私達も聖霊に満たされ、この信仰の喜びと確信で応答させて頂きたいと思います。
2024/12/3 今週の礼拝説教
主の道を整える人 マルコ福音書1:1-8
待降節の第一週です。マルコ福音書は、マラキ3:1やイザヤ40:3などに預言されている・・主イエスに先立つ使者としての「洗礼者のヨハネ」について書きだします。バプテスマのヨハネは、預言通り、メシア到来の準備の務めを全うし、ヘロデに処刑されるという思いがけない形で表舞台から身を引く事になります。人間的には理不尽なように思う人もいるかもしれませんが、ヨハネは神様からの使命を全うし切って召されたのでした。
それではヨハネはメシア到来のためのどのような準備をしたのでしょうか。 第一に、荒野に出て、他でもないユダヤ人に対して「悔い改めて洗礼を受けるように」と迫りました。当時のユダヤ人たちは、「悔い改めるのは異邦人だ、政治的にはローマの支配下にあっても、自分たちは神に選ばれ、導かれた民、律法を与えられ、割礼を受け、メシア到来の終末には、自分たちこそ高められる!」と思っていました。ヨハネは、そのユダヤ人たちに対し、「悔い改めよ」と叫んだのでした。形式に安住し、真実の信仰が希薄になった「自己義認」の人々では、この後、折角救い主と出会っても、福音の恵みが恵みとして響かないのです。だから、王の前に行く先触れのように、「心底悔い改め、そのしるしとして『洗礼を受けなさい』と勧めました。」 さらに、ヨハネを人間的な次元でもてはやす人々に、「わたしより優れた方が、後から来られる。私はこの方に対して奴隷にも値しない。私はヨルダン川で水の洗礼を授けているが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」と証しいたします。
今日、私たちは神様に背いて生きてきた罪を悔い改め、主の贖いの恵みを受け、聖霊による洗礼を受けさせて戴いて「新しい人」として生まれさせて戴きました。更に深く、ヨハネの指し示す主イエス・キリストに深く結ばれて行きたいと思います。
2024/11/25 今週の礼拝説教
ヒゼキヤの病気 列王記下20:1-11
南ユダ王国の信仰的な三人の王「ダビデ・ヒゼキヤ・ヨシュア」の中のヒゼキヤの出来事です。
ヒゼキヤの治世中に北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされました。そのアッシリアは南ユダをも手中に収めようと大群で取り囲みます。ヒゼキヤは何があっても真の神ヤハウェに依り頼み信頼を貫き通そうとしました。主はその信頼に応えて下さって、介入して下さり、大群は一夜のうちに絶え、アッシリアの王は自国へ逃げ帰ります。 ヒゼキヤが「死の病」にかかり、イザヤを通して「お前は死ぬのだから、その後の準備をせよ」と言われたのはそんなときです。「一難去ってまた一難」どころではありません。そんな時、私たちは神様と、どう向かい合ったらいいのでしょうか。ヒゼキヤは「いまさら、あんまりひどいではありませんか」と、恨みがましい気持ちをぶつけたり、自己憐憫で泣いたりしませんでした。ただ、「あなたを信じてひたすら歩んできたことを思い出してください。」と、神様の前に心を開け放ってお願いしました。信頼して泣いたのです。それは私たちにとっても大切なことです。
神様は、この祈りを聞きあげて下さり、帰る途中のイザヤに啓示をお与えになり、「私はあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、私はあなたをいやし、三日目にあなたは主の神殿に上がれるだろう。」と言うのです。命が15年延長された癒しのしるしも実現しました。
わたしたちは今、ヒゼキヤにまさって、すでに、主イエスの十字架の贖いを受け、その恵を信じる信仰によって、永遠の命の勝利を保証されている者たちです。この後、有頂天になったヒゼキヤのような失敗をしないように、傲慢にならず、謙遜に、頂いた一日一日を大切に、イエス様に信頼しきって歩ませて頂きましょう。
2024/11/18 今週の礼拝説教
主よ、私たちは誰の所へ行きましょうか ヨハネ福音書6:60-71
6:66では、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」と、記されています。言いようのない悲しくつらい「分断」です。三位一体の神様は、罪の結果としての人間の滅びが忍びなく、御子をこの世に送り、救いの手立てを尽くして下さいました。
主イエスは黙々とその道を歩み通して下さいました。その只中で大勢のユダヤ人・弟子たちまで、主から離れて行ったというのです。その引き金は、「私の肉を食べわたしの血を飲むものは、いつもわたしの内におり、私もまたいつもその人の内にいる・・・」などの表現でした。「人間の肉を食べるなんて」「血を飲んではならないと律法に記されているではないか!」と、躓いたのです。それは、そのように御語りになる主イエスに対して、信仰的霊的な認識がなかったからです。そのみ言葉も「肉の次元」でしか聞くことができなかったからでした。「命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。」(6:63)と語られています。
主の「あなた方も離れて行きたいか」との問いに対し、ペトロは、「主よ私たちは誰の所へ行きましょうか」と、否定します。それはこれまでの人間的な深い絆からではありません。本音で「あなたは永遠の命の言葉を持っています。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、又知っています。」と言えたからでした。 それはペトロたちが卓越した人格者・秀でた学者だからではありません。イエス・キリストに対し、この世的な肉の眼差しでなく、聖霊の導きによって向かい合わせて戴いたおかげで「解った」ことでした。だから、他の誰の所へも行くことが「できない」のです。それは只、父なる神様から一方的に頂いた「選び」の結果です。
私たちも努力や頑張りでなく、父なる神様に招かれて「今」があります。信頼し、お委ねして主のおそばに歩ませて頂きましょう。
2024/11/11 今週の礼拝説教
光の子として生きよう エフェソの信徒への手紙5:6-20
イエス・キリストの体である教会の一員とされたキリスト者は、どのように生きたらよいのでしょう。 み言葉は、エフェソの町にある教会のキリスト者に対して、具体的で歯に衣着せない表現で語ります。「あなた方は、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(5:8)を中心に聞いて行きたいと思います。
生まれていくらも経たない初代教会のキリスト者たちですから、いわゆる一代目のクリスチャンが多かったかと思われます。それは嫌でも「あなた方は以前は闇(やみ)でしたが」と言う部分が身に沁みるかと思います。かつての見える世界の人間の常識・価値観・自分中心のエゴに振り回されていた闇(やみ)の時代です。その闇がどんなに恐ろしく空しいか・・自分の罪に向かい合わされ、やがて主イエスの十字架の贖いを信じ救われた・・感触がまだ身に沁みついているかもしれません。
それらの闇(やみ)と決別させて頂いたとはいえ、生活の場は、依然としてあの闇(やみ)の世界なのです。そのつながりを通して、ずるずると引き戻されないよう・・にと、切々と語られます。
それは、当時のエフェソと50歩100歩の今日の私たちキリスト者にも「主イエスの十字架の恵みを希薄にするような状況からは毅然と手をひけ!」と促します。
「闇(やみ)」を見てきましたが「光」に目を注ぎたいと思います。「今は主に結ばれて光とされているのだから、「光の子として歩むように」促されています。いたずらに卑屈にならずに、すでに救われて光の子とされていますから、ひたすら主を見上げながら、信じて従って行きましょう。
その大胆な信仰に生きるとともに、内なる聖霊様がお支え下さり、目に見える肉の確かさではなく、さらに霊的な領域の深みに導かれ、豊かに成長させていただけます。
聖霊を通して自らの罪に気づかされ、主の十字架の贖いの恵みを感謝して受け取ったあの恵みを、幾度でも新しく経験させて頂きたいと思います。新しく自分の目から「丸太」を取り除いていただき、愛する兄弟姉妹と向かい合わせて頂きましょう。私たちの目は、もはや相手を裁いて殺す目ではなく、相手を生かす目として用いられます。それはこの福音を伝える「伝道する目」「証しをする目」です。なかなか相手に福音が伝わらず、つらくもどかしい時にも、生ける主に信頼し心からお委ねし、祈りづけましょう。
2024/8/6 今週の礼拝説教
天の父の子となるため マタイ福音書5:38-48
平和聖日にあたり、改めて本当の平和の土台は、この世界の創造主であり今も私たちを愛し続けて下さっている神様のみ言葉に聞き、生きることであることを思わされます。
「復讐をするな」「敵を愛しなさい」・・・これらの高邁な美しい勧めに従っていたら、戦争にはなりません。しかし多くの人は実行不可能な勧めとして見て見ぬふりをして通り過ぎます。イエス様は実行不可能で高度な倫理的勧めをしているのではありません。私たちは「目には目」の何倍も仕返しをしたくなる人間の本性をご存じの上で、「歯には歯」どころか「下着をとるものには上着も与えるように」と勧めるのです。それは、たとえ悪いものが相手であっても、私たちが復讐と自我の追及の連鎖に巻き込まれないため、断ち切るための恵みの勧めです。ローマ12章では、「誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」・・・などと勧められています。
「敵を愛しなさい」との勧めもイエス・キリストを信じない人にとっては「絵に描いた餅」のようなもので現実味がありません。しかし、キリスト者一人一人にとっては、「かつて罪の塊のような、神様の敵であった者を、独り子を殺して救うほどに愛して下さった現実の出来事」です。いわば私たちはこの御言葉の証言者です。「しかし、私たちがまだ罪びとであった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより神は私たちに対する愛を示されました。」(ローマ5:8)
この愛によって神の子とされた私たちは親である神様に見習って、マネをして、一歩一歩成長させて頂きたいと思います。かつてしがみついていたこの世の誇りではなく、主からの愛こそが誇りです。
2024/7/30 今週の礼拝説教
あなたの家に何があるのか 列王記下4:1-7
エリシャの仲間の、名も知れない預言者が、妻子を残して突然死んでしまいました。預言者ですから、主を畏れ敬う人でしたが、貧しくて子供を担保にお金を借りていたほどでした。返済できないので、子供たちを奴隷として差し出さなくてはなりません。もし、私たちがこの妻の立場だったらどのように対処したでしょうか。「すべてを尽くして主に仕えてきたのに、この結果はあんまりではないか・・・」と、神様への不信の思いが沸き上がるでしょうか。あるいは「だから信仰なんてそこそこにしておかなくてはね」などと言う声が耳に入るかもしれません。しかし、この妻は「そうだ、こんな時ほど夫は神様により頼んでいた。それなら、エリシャ先生に相談しよう」と、決断したのでした。
相談を受けたエリシャは神様から知恵を戴き、唯一残った、油の入った壺によって奇跡をおこない、必要な富を得て、この親子を救いました。
新約聖書の中で、子供の差し出した「5つのパンと2匹の魚」を用いてイエス様が5000人の空腹を満たした出来事を思い出します。
さて、エリシャの言うことを聞いて、言われたとおりにしたこの親子の信仰に目を止めたいと思います。最悪の状況の中で奇跡など信じにくい・・それでも、ともかく受け入れて従いました。この謙遜な「ともかく」が大切です。
ある人は次のようなことを語っています。「人が、真実に神を知るのは、自分の罪に目覚め神の前に本当の自分自身を知り、恐れおののき、さらにキリストによる赦しを通して神を知る時だ。」
預言者の妻は旧約時代の信仰に生きた人ですが、神の前に自分を正当化したり被害者意識で立つのでなく、自分の不十分さを知り神の前に謙ることを知っているところから「信仰」に繋がりました。 私達は自分の罪を知らされ、十字架の恵みに預かり、大胆な信仰に生かされと思います。
2024/7/22 今週の礼拝説教
信仰に生きる Ⅱコリント4:16-5:10
「だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えていくとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。」(4:16)と言うみ言葉にどれほど多くの人が励まされてきたことでしょうか。ただの慰めや励ましでなく、私たちキリスト者が経験させていただける現実です。パウロも体の衰えや不具合を覚えながらも、そのことに捕らわれ切ってしまうのでなく、「信仰の喜び、み言葉の確かさ、見える世界を超えた主の救いの恵み」等が、日々確信となって溢れてくるのです。だから、落胆しないのです。
そればかりでなく、主に結ばれ、主の労苦にあずからせていただけば頂くほど、やがて終末の時、私達もイエス様のご復活の体にあずからせて頂けることが明白になってきます。「私たちの一時の軽い艱難は、比べ物にならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」との確信は、私たちも持つことのできるものです。
「地上の幕屋に住む私たちは重荷を負ってうめいて」いますが、主を信じて救いにあずかった恵みの故に、なお主に仕え、喜んでいただけるものにされたいのです。
パウロやペトロや・・・信仰のエリートばかりでなく、私たちキリスト者それぞれにそのように願わせて頂けるのは、「私たちをこのようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えて下さったのです。」(5:5)と記されているように、小さなキリスト者一人一人の中に聖霊をお与え下さっていますから、このような大胆なことを願うことができるのです。
ひたすら、この聖霊により頼みながら、主に喜ばれるために、労苦を惜しまず、恐れず、歩ませて頂きましょう。
2024/7/16 今週の礼拝説教
私が与える水 ヨハネ福音書4:7-15
北イスラエル王国の滅亡によってほかの国から連れてこられた民族との血筋の入交ったサマリヤ人は、ユダヤ人にとって蔑みの対象でした。イエス様はそのサマリヤ人の女の人に福音を伝えます。
そのカギとなる言葉が「水」でした。激しいのどの渇きの中、イエス様は伝道のために敢えて謙って「水を飲ませてください」と頼みます。常識的にはありえないことでした。女の人は率直に「何を言っているのか」と、問返したところ、イエス様は、「神の賜物としての命の水を与えることのできる私が誰なのか知っていたら、あなたの方から求めるだろうに。」と「私はあなたに命の水をあげられる」と語ります。
「この世の水」も本当に大切です。けれども今イエス様は「人間の霊的な渇きを根本的にいやす――十字架の恵みから流れてくる生ける水・命の水を与える話をしているのです。
ところがこの女の人はこのイエス様の招きの言葉に耳が開きません。「汲むものもないのに」とか「あなたはヤコブより偉いのか」とか、言い募るばかりです。そして、イエス様の「この井戸の水を飲むものはまた渇くが、私が与える水を飲むものは決して渇かない。その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」との恵みの現実の言葉に対して、「それはありがたい、渇かないで、汲みに来なくていい水なら下さい。」とかみ合わない返事をします。
伝道とはなんと困難なことでしょうか。しかし、イエス様はあきらめません。何より、本当は、この女の人が焼けつくような飢え渇きを持っていて「命の水」を待ち焦がれていることを知っています。
何とか救いたいと思って下さるからこそ、「あなたの夫を呼んできなさい」という大胆な一言で深く踏み込まれます。
それはかつて私たちが主に導かれた恵みの道です。
2024/7/9 今週の礼拝説教
永遠の命を受ける ヨハネ福音書3:16-21
情報伝達の加速度的な変化や自然環境の激変、人口減少等、複雑に絡み合ったこの時代、多くの教会の成長が伸び悩んでいることを否定できません。福音を伝えても、「見える世界の事で手いっぱいで、見えない世界の事どころではない」と返事が返ってきます。
現代だけでなく、いつの時代にも言えることでした。ニコデモが属していたユダヤの最高法院やファリサイ派の人々の多くも建前は唯一の神様を重んじていましたが、本音はこの世第一の発想をしていました。そんな中にあってニコデモはイエス様の御業を通して、「真理への飢え渇き」が揺さぶられて我慢できずに「夜」訪問したのでした。
イエス様はそのニコデモをすっかり見抜いていました。それで、ストレートに「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」つまり、「あなたが求めていることが本当にわかるには、この世中心の肉の生き方から、神様中心の霊の生き方に生まれ変わったらいいのだ。」と、語ったのでした。それはイエス・キリストを信じて洗礼を受け、水と霊とで生まれれば、聖霊の導きによって永遠の命に生かされる・・・と言う恵みです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(3:16)
永遠の命を戴く恵みは、ただの神様の思い付きではなく、「愛」なのです。センチメンタルな愛ではなくて、これ以上ない痛み苦しみ辛さの犠牲を払って下さった「愛」です。「放蕩息子のお父さん」や「一匹の羊を探し求める羊飼い」に譬えられている神様の愛、イエス様の愛です。
旧約に出てくる「青銅の蛇」のように、「ただ見上げさえすれば、命を得させて戴ける」のです。ニコデモはやがてこの愛を受け入れて新しく生まれました。私達も戴いたこの恵みを何度でもかみしめたいと思います。
2024/7/2 今週の礼拝説教
イエスの命が現れるため Ⅱコリント 4:7-15パウロは、キリスト者迫害のためにダマスコへ行く途中で主イエスにお会いした出来事をはじめとして、数知れない奇跡を経験させて頂いた人です。それと同時に、人一倍主イエスのための苦しみを味わってきた人です。強盗、遭難、むち打ち、投獄、裏切り・・苦しみのデパートと言ってもよいほどです。しかし、パウロはその経験してきた肉体や心の苦しみを「あってはならない不本意なこと」と思っていませんでした。それは自分の体や心が「土の器」であって、惨めでもろい粗末なものですが、同時にこの土の器の中に「神の宝」が収められているからです。
福音宣教の途上で、迫害を受け、苦しみ、もろく壊れることを通して、中の「神の宝」が溢れ出てくることを経験として知っているからです。もし私たちが鋼鉄のような頑丈な器であったら、いろいろな困難や試練に勝利した時、「よく頑張った、なんと誇らしいことか」と自分に栄光を帰さないでしょうか。士師記でギデオンが戦いに用いられるとき、神様はそのことを避けるために、32000人の兵士を300人に絞りました。
さらに、土の器として用いられる利点は、「割れ、壊れる」ことを通して、中の「神の宝」があふれ流れ出てくることです。ある人はこの神の宝とは、「信仰」だと言います。どのような信仰でしょうか。2000年前、私たちのために主イエスがゴルゴタの丘で十字架にかかって死んでくださった事実を、パウロの生活の今、私たちの生活の今、のただなかで確認し確信する信仰です。その都度「主イエスの命が、この身に現れる」のです。その結果として、土の器であるにもかかわらず、「四方から苦しめられても行き詰まらず」「途方に暮れても失望せず」「虐げられても見捨てられず」「打倒されても滅ぼされない」のです。
2024/6/25 今週の礼拝説教
罪・裁き・憐み 列王記上21:17-29
「エリヤ物語」の終わりに近いエピソードです。北イスラエル王国のアハブ王は、イズレエルの王宮の近くにあるナボトと言う人のブドウ畑を何としても手に入れて、自分の菜園にしたくてたまりませんでした。その土地を手放してくれるように、丁寧に頼みますが、ナボトははっきりと断ります。律法によれば、「土地は神様から預かった恵みのしるしだから手放してはならないから」です。アハブの妻イゼベルは偽証人を立て、公の場で、ナボトを石打の刑で殺してしまいます。
この罪に対して神様はエリヤを用いて、「裁き」をアハブ夫妻に告げます。「あなたは自分を売り渡して主の目に悪とされることに身をゆだねた!!」それは、「自分で自分を売り渡した。人の目にどうかでなく、主の目に悪とされることに身をゆだねた。」罪です。結果として、「アハブに繋がる男子をすべて絶ち滅ぼす」「犬がアハブの死体の血をなめ、イゼベルの死体を食う」というのです。
アハブ王はこの言葉をエリヤから聞き、衣を裂いて荒布を身にまとい断食しました。そして自分の罪を悔い改め、神の前に謙りました。この謙りを神様は認め、受け入れました。その結果裁きの内容が、変更されたのです。今のアハブの代で一族が滅亡するのでなく、アハズヤをへてヨラムの代に一族が滅びる・・・というのです。それは悪王アハブの悔い改めに対する神様からの憐れみです。この変更に対して、私たちは納得できない思いを抱くかもしれません。しかし神様はこのようなお方です。
だからこそ、私たち一人一人の底知れない不誠実と罪に対してご自身の一人子を罪の支払いのために、十字架上で殺して下さいました。私たちの悔い改めはとるに足りないものですが、それでも受け入れて下さって、一人一人に理不尽としか思えない憐みを注いで下さいました。
2024/6/18 今週の礼拝説教
人間の心を知る主イエス ヨハネ福音書 2:23-25
聖書の世界には、「自分で認識している私」と「人の目に映っている私」と、「神様の眼差しの中にある私」と3種類の自分がいます。
今日の聖書の中で、エルサレム神殿の境内で「宮清め」の出来事の後、イエス様は奇跡やしるしを行われました。それを見た人々は、感動しイエス様を信じました。少なくとも民衆自身はそう思ったのですが、イエス様の眼差しには、本当の信仰とは程遠い、人間中心の自己中心の軽薄な信仰でした。
彼らの言いなりになっていたら、ローマと対抗する政治的なリーダーとしてのメシアとして、担ぎ出されかねないところです。そうであったら、ありったけの愛を尽くして人間の罪の贖いのために十字架につき、死んで葬られ、復活される「福音」はかき消されてしまいます。この世の「手に触れ見える栄光と、全世界の人々にまで広げられてゆく「新しい契約」は引き換えにされてはなりません。自己中心の未熟な主イエスへの信仰を見抜いて、はっきりと線を引くことこそ、救い主イエス様の本当の愛です。
「イエス様を信じた」と思っても、気まぐれ、不安定、自分に不都合が起これば簡単に手放しかねない・・・それは神殿の境内でしるしを見た人々だけでなく、残念ながらすべての人間の現実です。そんな私たちに「すべての人の事を知っておられるお方」が光を与えてくださいます。個別に知って下さっているからこそ、「未熟な幼子の信仰」から「イエス様中心の、御言葉中心の、信仰」へと成長させてくださいます。それは個別の愛のプログラムです。主イエスの命と引き換えに罪赦され、永遠の命を戴いた私たちは、他者の信仰の評価や自己卑下に捕らわれず、育てて下さる主を見上げて歩ませて頂きましょう。
2024/6/11 今週の礼拝説教
わたしの父の家 ヨハネ福音書2:13-22
「過ぎ越し祭」の時のいわゆる「主イエスの宮清め」の出来事です。
神殿の境内の中、異邦人の礼拝のスペースに、喧騒の中、牛や羊やハトが売られ、両替の場がおかれていました。建前は、礼拝者の便宜を図るものですが、実質は人々の信仰を利用した神殿の関係者や商人の果てしない利得を図るためのシステムでした。傍若無人と見えるイエス様の行動は、ヒュ-マニズム的な使命感からではなく、主イエスの父である神の住まいへの冒瀆に対する聖なる激しい憤りでした。
非常識で乱暴極まりない主イエスの行為に対して、居合わせたユダヤ人たちは、「こんなことをするなんて、自分を何様だと思っているのか。これに見合う奇跡を、さあやって見せろ」とせまるのです。それに対して主イエスは、「この神殿を壊したら、三日で建て直す」と答えます。それは聖書自身が解き明かす通り、「主ご自身の十字架の死と復活」を指し示すものでした。神の霊の宿る主のお身体は、紛れもなく神殿そのものだったからです。
そして今や、そのイエス様の福音の恵みに生かされている私たちキリスト者一人一人が聖霊の宮であり、その共同体こそイエスキリストの体であり、新しい神殿そのものです。「あなた方は、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。(Ⅰコリント3:16)
かつてのユダヤ人たちが信仰のマンネリに陥って、欲得に振り回されていても、気付くことさえできなかった現実を笑うことはできません。
欲得の塊とも言える「この世の価値観」の中にあって、ただ恩寵によって聖霊の宮とされた私たち自身に、又ともにキリストの体とされたこの教会の群れに、真実に謙って、生かして頂きたいと思います。
イエス・キリストの名によって 使徒言行録3:1-10
劇的な聖霊降臨によって新たに教会が誕生した、直後の出来事です。この事をきっかけに、3章4章で、更なる福音宣教が展開して行きます。
祈りのために神殿の門のところに来たペトロとヨハネは、40年間、生まれた時から歩けないで、「美しい門」のところに置かれ、施しを求めて生きてきた男の人に出会いました。二人は聖霊の導きの中にこの人をじっと見つめ「私たちを見なさい」と促しました。金銀の施しを期待する眼差しに対して、「もっと本質的なかかわりをする私たちに目を向けなさい」との促しです。二人が持っている究極のもの、それは「イエス・キリストの御名」です。即座に、この御名の権威によって立ち上がり歩くように命じました。同時に、彼の右手を取って立ち上がらせました。それは立ち上がるための力の手助けであると共に、信仰の力強い励ましでもあります。彼は即座に立ち上がり歩き踊り神を讃美しました。
その後、ペトロとヨハネとともに神殿の境内に入り、なおも二人に付きまとっていると民衆が非常に驚いて一斉に集まってきました。(11節)この足の不自由だった人は必死に金銀の施しを求めていました。しかしペトロとヨハネはもっと根本的な幸いである「健やかな体」を、主イエスの聖名によって与えました。この人は「これさえあれば働いて生きて行ける」と二人を離れて家に帰って行きませんでした。健康な体をもらって、さらにそれに勝った根本的な幸いを知ったからです。究極の幸いの源「ナザレのイエス」についてさらに深く知り絆を深めたいと思ったから、ペトロとヨハネに付きまとわずにおれなかったのです。
驚き集ってきた群衆に、ペトロは語ります。「金銀や健康な体があってもなくても究極に大切なことは、悔い改め、ナザレのイエスを救い主として心から信じることです。ここにあなたの救いがあります!」